神というものは・・・ <メモ>

放浪の説経語りのような心持ちで道を歩いて、新しい宿場に入るごとに寺社を訪ねて、道々の地蔵や道祖神や山の神や名も知れぬ神の祠に手を合わせて、道をゆくことは、神を訪ね歩くことなのだと合点しつつ、考えた。

神と呼ばれる存在は太古より無数にある。今よりももっと数多くの神々がかつてはいたはずでもある。
それは人間にとって、祈りや願いや呪いや畏怖の心を向ける存在であると同時に、そのようにして心や思いを寄せる存在であるという意味において、まことに根源的な記憶の装置なのだろうと最近つくづく思いはじめた。

誰かが、人びとの記憶を書き換えようとするときには、まずは「神」を従来の神から新しい神へと上書きするだろう。
かつて、それぞれの人ごとに、あるいは家族ごと、一族ごと、字ごと、村ごとに、無数に神がいるような、無数に記憶装置があるような、世界が互いに矛盾や葛藤や不協和音を響かせるようなさまざまな記憶で構成されているような、それはそれでよしとされているような、そういう世界があったのだろう。
神は古来、中央でも地方でも、上からも、下からも、あからさまにも、ひそかにも、さまざまに何度も上書きされてきたのだろう。

そして、おそらく、ここ日本で、決定的に、根本的に、記憶装置としての神のありようを変えたのは、明治国家だろう。
記憶(=神)はさまざまではあってはならない、記憶(=神)は管理統制されねばならない、記憶(=神)は近代化されねばならないのだと。


そこでまた考える。
記憶を上書きする力を、いまいちどわが手に取り戻すために、さまざまな記憶がさきわう世界のために、近代化された記憶やら神々やらを野生に還すために、あのアボリジニーのソングラインのように、歌い語り祈りながら、さまざまな記憶を宿したまま上書きされていった隠された神々を訪ねて、とんとんと足踏みして、杖で叩いて、旅をすることは大切なことなんではなかろうかと。