10.九州山中の落人村

「記録を持っている北里家の方では記録を見れば「そういうこともあったか」と思うことはあっても、日ごろはすっかり忘れているが、記録を持たない世界では記憶に頼りつつ語りついでいるためか、案外正確に四五〇年前以前のことを記憶していたのである」

これは肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、
宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥の、ほぼ山の頂とも思えるところに数戸が暮らす落人の集落の
記録と記憶にまつわる話。

<まずは記憶の話>

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。
惟長は島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。
惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の桂山で自決して果てる。
そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが桂山の甲斐氏となる。
伯耆守の死から450年の間に家は5軒となる。甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。
この5軒はいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けている。
この桂山の甲斐氏は北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承がある。

<そして記録の話>

小国郷の北里氏は永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配した。この家の古文書のひとつ「北里軍記」に伯耆守戦死の一条がある。
系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。
だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。


<記憶と記録を突き合わせる>

●450年の時を経ての北里の当主の訪問に、甲斐氏は殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。

●ただし、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという。このばあさんは家の者にも必ず墓参させすると言って立ち去ったが、事故か病気か小国にたどり着かず、行方知れずになったらしい。

●北里家側の記録に一族のうち70歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。この行方不明になったばあさんは、「家では蚕を飼っている」と甲斐氏に語ったといい、実際にその頃北里家は養蚕をしていた。

口承で伝えられてきた桂山の記憶は、北里家の記録と見事に符合するのである。それは北里家では思い出されることもなかった記憶だった。


400年間、朝鮮からの漂流者の記憶を歌って語って祈って忘れなかった与那国の人々の話を想い起こした。   
声で語り伝えられる記憶の力。