「(足尾鉱毒事件) 鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」を読む

下野国足利郡吾妻村大字小羽田の老農夫庭田源八の声を書き写す。
20年前には確かにそこにあったものを語る声は、いまそれが幻となり、なかったもの、なかったことにされてゆくことを、そうして公の記憶が形作られていくことにこらえきれず声をあげている。小さいけれども芯のある声、命を愛おしんで、命をないがしろにする<力>に抗う声、諦めない声。その声を聴きとる者たちを探す声。辺境の声。


鉱毒地鳥獣虫魚被害実記 1月 副題「北関東・渡良瀬川流域の昔の自然、特に鳥獣虫魚について」

立春正月の節、雪が一尺以上も降りますと、まだ寒う御座りますから、なかなか 溶けません。子供などが 雪を二坪くらい片付けまして、その所に餌をまき置きますると、二日三日も餌に飢えておりますから、その所に 種々の鳥が来ますから、そこへ青丸竹 寸くらいなるを 土間につけ、横に致し、根本に杭を三尺位の間をあけて 二本打ち立て、合にはさみ、根の一番杭は 根の外に打ち立て、二番杭は 内にして 力かぎり弓に張り、竹の先に 力の持つ所くらいに 竹杭を打ち立て、土際より三寸くらい出し、これを矢はづに切り、細き苧糸の先を結び 玉にして、右 矢はづの竹杭に挾み、おおよそ十二三間位の所に 綱を引き置き、右 雪かたづけ、餌をまきつけました所に、雀や鳩が餌にこごえておりまするを 待ちおりまして、これを 急に糸を引きますから、矢はづれ、杭に玉を結びとめて置きました 青竹弓がはづれまして、雀や鳩が 一度に三匹も五匹も取れました。
又 同じく 麦ぶるい と申しまして、差し渡しが三尺位、深さが六七寸位のふるいを、その位に 雪を除き餌をまき置き、その所にかぶせ、地より一尺五寸くらい斜めに伏せ、細き竹に糸を付け、これも十間長き糸 引き置き、右 同じく小鳥が餌に渇えて降りるを見て、急に引き 小鳥を取る。一匹二匹は 取れ申しそうろう也。前に申した 青竹弓を ブツハキ と言う、麦ふるいを 引きかぶせと言う。
近年 鉱毒被害のため小鳥少なく、二十歳以下の男子、この例を知る者なし。

<後略>

 
鉱毒地鳥獣虫魚被害実記 8月 
                                           
白露八月之節也。最早 菜種を蒔きまする節に 御座ります。彼岸の中日の 三日前に 蒔きます。これは麦田と申しまして、稲を刈り取りまして その後に植えまする、 菜種で御座ります。此時分、菜蒔とんぼと申しまして、日中 午前十時頃より午後三四時頃迄、青空に 一面に 蜻蛉が飛び違ひました。何万何千何億と言う 限りありませんかった。鉱毒被害以来、更におりません。鳥類、銃猟のためとて、とんぼ猟とては無し。然るに、一切御座(ござ)なき故は 鉱毒被害の 確実なる証拠なり。

又 林藪の中には、椚茸、笹茸、榎茸、その外も 様々の茸も、これ等も、鉱毒のため 少しも出ません。山雀、ヒヨドリ、又、百舌鳥、白鷺、鴉等と申します、蒿雀、蝋鳥、ホヲジロ等と、種々の鳥類が参りました。渡良瀬川に、スズキ、セイゴ、ボラ等と申します魚が、朝日の昇る頃より 午前七時頃迄、又 午後五時三十分頃より六時頃迄、深き処より 浅瀬に小魚を追い出し、又 追い出し、泳ぎ歩く所を 投網と申します網を打ち、一網(ひとあみ)に 五匹六匹も取れました。又 田面 稲も実り、圃には 粟や、又、蕎麦、大豆、小豆、陸稲、豌豆、大根、葱、芋、蜀黍、大角豆、蕪菁、牛蒡、胡??、荏、何れの作物にても 収穫のあらざるなし。只今は、更に鉱毒被害のため、一品にても取れません。

又 渡良瀬川へは、鮭が 多く登り参りましたもので御座ります。この鮭を取りまするには、川幅へ 矢筈(やはず)に二間位い、あいだに 杭木 打ち立て、この杭に 鮭網と申しまするを張り、この目 二寸位ありまする。深さ 三尺より三尺五寸位の所へ、横幅三間位、長さ六間位へ 水瀬に随って 割竹の簀を張り、これの幅三間、長さ六間下の方ヘ いっぱいの袋網を 水中 土際にふせ置き、水上の網ぎわを 三尺を離れ、極細き糸にて 八寸角位の目網を張り、これに細き篠竹を 三尺間位離れ、横に網を張り、上は あはに 糸を付け置き、右 細き篠竹を弓に張り、これに 銘々鈴を付け、これを脈網と言う。鮭が 登り来たり、登り詰め、右の脈網をもぐり、しり尾にて あおり、鈴をふり、これをたより、下の方にふせ置き 袋網を引き上げる。鮭の驚ろいて 網の中い落ちる。これを引き上げ、出さづに 桐の木の 手ごろ棒にて 二つ三つ打つ、鼻つらをたたきますと、即時、死んでしまいます。又 張り網の中へ、扇子を 半分開きましたように致し、枯竹の 一尺 丸太位のを 根本 水上に致し、うらは 左右にまたがせ浮し置き、これを浪除と申しまして、一度登り来り、取りはぐると 鮭もこりまして、そろそろと登ります。最早、鈴はふりませんから、これは 登ります浪を見まして 取りまする故、この浪除置き、網や坑 水、浪を除きまして、鮭の登り込み、浪が よく見へまするもの也。鉱毒被害以来、二十歳以下の人々、この例を知る者 これなし。


鉱毒地鳥獣虫魚被害実記 12月

                 
小寒 十二月の節に 相成ますると、渡良瀬川筋 支流 川 沼にて、泥の厚くおります所に、ウナギ 土に差し、冬籠りを致しておりました。
これを うなぎ掻きと申しまする、鉄を曲げて これにあきがありまして、掻きまして 取れました。又 寒中でも、その厚き泥の中に、吹き穴と申しました穴があいてありました。後に針、蚯蚓 刺しまして、穴釣りと申しまして、ウナギが釣れました。これも、二十歳以下 青年諸君は知ますまい。 又 五六月時分、雨 降りまして川水 濁りました時には、苧に 蚯蚓を刺しまして、これが たがみ釣り と申しまして、ウナギが蚯蚓をくはい引きまするを そろそろ 引上、急に 船の中へ 引き上げますると、釣れました。これも鉱毒被害、二十歳位の青年、この例を知りますまい。

大寒 十二月の節に相成ますると、狢や狐等が多く、人家軒端や宅地等を 多く回り歩るきました。狢は、ガイガイガイガイと嗚き、狐は、コンコンコンコンと鳴き、インインインインと啼くもありました。いずれも、耽もので 御座りまするよう、多くおりました。鉱毒被害のため 野に鼠もおりません、虫類もおりません。又 魚類の少なき故なるべし。 又 屋敷回り等に 人参等を取りまして、土に埋め置きますると、堀出し 多く喰うもので御座り升が、二十歳以下の青年諸君は、右等の事は 御存知ありますまい。

次に 四五六七八九月に至る迄、種々 草が、その数 限りなく御座りました。中にも圃に ジシバリ、田で ヒルモと申しまして、最も 非常の悪草で ござりましたが、鉱毒被害のためには、影にだも 見えません。
筆紙難尽、只今 あります分は、芝とスギナと申しまする草のみ 満々と延びまする。前条に付まして 御尋ねの御方様には 委細御答申上ます。御推読 願います。
 
  明治三十一年旧二月十日
        栃木県足利郡吾妻大字下羽田第壱番農

庭田源八
    当六十歳

東京市芝区芝口三町目信濃屋方にて