「事もなく」と、金時鐘は、繰り返し、投げ捨てられ、忘れられ、消されていくモノ・コト・ヒトを歌ってきた、ということを想い起こす。
ノアの洪水さばがらの東日本大震災の惨事すらやがては記憶の底へと沈んでいって、またも春は事もなく例年どおり巡っていくことであろう。記憶に沁み入った言葉がないかぎり、記憶は単なる痕跡にすぎない」
「呪文」
耐えれば春も芽吹いてくると人が言い、
根雪すら根元からほぐす
木の根になれと風が言う。
逆立った海と
岩戸の青い鬼火とが戯れ合った
三陸の大地に
産土神よ蘇りませと
途切れた線路つたって手を合わせ
思いのだけのリュック担いで
ひと掬いのま水になれと草いきれが言う。
(後略)
見えない町をゆくのが、詩人なのだとすれば、見えない町の所以を知るのならば、見えない38度線で断たれて、呪縛された 済州ー猪飼野ー東北と、どうしようもなくゆかざるをえないのも詩人。
「夜汽車を待って」
そこへはまだ行ったこともないのに
なぜか大事な何かを忘れた気がしてならない。
夜ともなれば列車はきまって三陸海岸を逆のぼり
無人駅にも桜は例年どおり舞っていて
そこでもまた私は
朴訥な誰かを見捨ててしまっている。
特定の誰かでもなく
定かには見分けもつかない人びとなのに
それでもありありと顔が見えるのだ。
(後略)
改元。それがどうした。
改まっても同じくさってゆくしかない年が
またしてもそこまで
無人の街をかすめてやってきていた
(「またしても年は去り」より最後の3行)
「それでも言祝がれる年はくるのか」と詩人は言う。
嘘はここで群れ合っている
心情で睦んでいとおしんで
何から何を癒しているのか。
ふたたび「産土神」。
思いおこすのだ
産土神が坐しました里の夜は
畏れがしろしめす奥深い暗だった。
その畏れを散らして
禍いは青く燃えているのだ。
(「禍いは青く燃える」より最終連」)
見えないままに冒される/眼のそこの緑の錆
私は見ました。
呼び合う間もなく裂かれていった人たちの
虚ろな心の空洞を、
空洞の奥の昏い沼を見ました。
澱みが鈍く、
放射能を湛えてしずもっていました。
浄めようも浄めようがない
水の祟りをそこに見ました。
ゆらゆら影でしかない私がゆらめい
眺めるだけの私を私が見つめていたのでした。
見えないままに冒される
眼のそこの緑の錆を。
見えないものをいる眼すら、すでに何も見えなくなったとき、
詩人はどうやって詠いつづけるのだろうか。
詩はいかにしてこの荒廃を突き抜けていくのだろうか。