① p57~58 逃げる。
思えば生まれた時から逃げ回っているような気がしてならなかった。チョウセンと言われないために、変な目で見られないために、酒ぐせの悪い親父から、貧乏から、汚ない家から、朝鮮部落から、土方から、キムチから、チマチョゴリから、朝鮮人の触った土から、空気から……。逃げ続けに逃げて来たのだ。
生まれてこの方英浩は、逃げの道を走る事しか教わらなかった。道の外には緑の野がある事も、見上げればそこに青い空がある事も、知らなかった。彼は楽園から追放された、醜い朝鮮人だった。
日本人は自分たちを決してユダだとは思っていない。日本人はキリストを売って、不当な利益を得た事などなかった。だから日本人は、安心して朝鮮人に石を投げつける。こうしたことを疑ってみた事のない英浩のような若者は、ただひたすらに己を生んだ親を怨み、朝鮮を呪い続けるという形でしか、人生に関与することができなかった。彼は逃げ続けた。
しかし、作家李起昇の言葉を借りるなら、本当のところ、日本人はユダである。他者の命と引き換えに、黄金を夢みたユダである。
②P110 コンプレックス
コンプレックスは、常に優越感の対極にある。優越感が壊された時に、コンプレックスは顔を出す。英浩の優越感。それは貞淑(ソウルで出会った女)に対するばかりでなく、韓国に住むすべての人々に対する優越感であった。そしてそれこそは、日本人の持つそれであった。韓国よりも進んだ日本に暮らしているという優越感。韓国よりも日本の方が上だという、思い上った心根。そして日本人はえらくチョウセンは駄目なんだ、という日本社会の常識。
(中略)
彼が自分自身を差別していなければ、目に見える韓国を、ありのままに見るだけで足りる。言葉が必要になれば、その時に言葉を学べばよい。風俗、習慣、文化が必要となれば、その時々にそれを吸収すれば充分である。必要が生じない限りは、学ぶことはない。唯、見るだけでよい。
だが、彼の頭には、常に、然るに、というコンプレックスの枕言葉がセットされている。
……然るに、俺は言葉を知らない。然るに、俺は歴史を知らない。然るに、俺は韓国を知らない。――だめだ。駄目だ。ダメだ。
英浩は<然るに>が何に対する<然るに>であるのか、考え及ばない。日本人になり澄ました自分が韓国を評しているとは知らなかったし、日本人の自分が「朝鮮人」の自分を差別しているとは、尚更の事、気が付かなかった。
無意識のうちに、日本人の価値観を身に染みこませたまま、朝鮮人であること。
自身のうちに差別する者と差別される者が共に在ることの苦しさ。その滑稽さ。
③ ふたたび 逃げる
「俺は逃げるんだ。」
(中略)
偽せ者だ! 誰も信じられものか。偽せ者だ! そんな叫びが心にあった。しかし、それは当ってないよ、と自分の背中を見ているもう一人の自分は語っていた。一方的に、ただ独り言のように、それは違うよ英浩君、と穏やかな口調で言い続けていた。そんな事を言うお前は誰なんだ、と後ろを振り返ってみたくなる程、その声ははっきりとしたものだった。そして鮮明に、自分の目の前に自分の背中があった。
④ 対話
佳子「逃げるつもりでも、本当は逃げられないんだわ。孫悟空よ。(後略)」
(中略)
英浩「そうかも知れない」
佳子「いえ、そうよ、逃げたつもりが、逃げた事になってないのよ。闘っているつもりでも、闘ってないんだわ。……それを知るには、自分が中心では解らないわ。相手が解らないと……。解っている時の逃げっていうのは、逃げじゃないと思うの。さっきのあなたみたいに」
佳子「さっきのあなたは、逃げる事がどういう事か知ってたわ。でも昨日のあなたの話。事故を起こした友達を見捨てて逃げたという話。単に警察から逃げただけ、とは思えないの。一体、何から逃げようとしたのかしら。それが解れば、あなたは西に十万里攻撃している自分を発見できるように思うわ。たとえ東に十万里逃げても、その事を意識して行えれば、それはもう逃避で無くなるんじゃないかしら」
(中略)
英浩は天を仰ぐ。絹雲が高い空に浮いている。目を大地に戻す。霞んだ。競馬場のグラウンドが見える。
「影だよ」
この影は、ゲド戦記の、あの影との闘いを思い起こさせる。
日本に戻ってどうなるんだろう、と考えた。ねえさんをどしよう、とも考えた。しかしすべては、今日のソウルの風景のように、まるで見透しがきかなかった。それに、自分の背中も見えなかった。
今の彼には、方向を問わず、当てずっぽうで逃げることしかできなかった。どこへ行くのか勿論、何から逃げるのかすら、はっきりしていなかった。それなのに腹だけは、死にそうなぐらいにペコペコだった。
自分がまだ半人前のパンチョッパリ=ゼロはんに過ぎないこと、
そこから生きなおすこと=逃げ直す事を心に決めた瞬間がある。
これから本当の「逃げる」、本当の「生きる」がはじまる。
まだその行方はわからない。