森崎和江 産みの思想  メモ

「産み・生まれるいのち」より

 

死について古来人びとはさまざまに考えてきているのに、産むことについてなぜ人間は無思想なのだろうと、若い頃から疑問に思ってきました。死は個人にとって、個としての生活を完結させます。これにたいして、産むことは個に限定しがたい生態です。それは異性と子にかかわり、他者の発見に通じます。 

 

 

産むことは、生まれることなのです。生まれるいのちを、人間は産むのです。時代は、人間たちの意識の開花を待っています。 

 

 

これは1994年刊の『いのちを産む』からの抜粋。

 

 

「ゆきくれ家族論」(1979年)より

 

ことことと胎児が私を打ちつづける。意識や感覚を肉体のなかから打ってくる。(中略)私は身ごもってからもなお内から発信されつづけて、息ぐるしいまでにゆさぶられた。何かとてつもない変化が近づく。そして何かがこわれていく。私の認識のとどかぬところで。

 

(中略)

 

生まれたものから、産むものへの、その変動はただ肉体や感性の破壊や新生にとどまらない。私は詩も書いていたから、詩を書こうとしつつ、書けなくなった。よくよくみつめていると、私が知っていることばのすべては、私という用語すら、生まれたものの意識秩序で流れていた。そこには産むものの肌ざわりがない。私の心は母を呼びつつ泣いた。幾千幾万の母たちの、産室の無力へむかって泣いた。その自己表現の無力さをののしりつつ泣いた。そしてこの世に、産小屋の伝統があるいみを、知った。女たちが子産みのとき、家を離れ村を離れて、うぶごやへ向っていたその民俗の文化的いみを知った。それは生まれた者の秩序が支配する世の中から、産むものがみずからえらんだ姿に違いなかった。 

 

「生まれた者の秩序が支配する世の中」としての、この世界を考えること。

産む女が胎児と二重になった人格をみずからひとつのことばで語りつつ、その創造世界を作ること。

それを森崎和江は、女たちの文化にかかわることなのだと語る。

男性女性の想像力の開発に関することなのだと言う。

そして、想像力は文化の泉なのだと。

 

サークル村の頃、いまだ産むものの思想を言語化できない森崎和江を、谷川雁がくりかえし罵倒したのだという。(いま、この文章を読んでいても、二人のあまりに厳しい関係性が、そしてマッチョな谷川雁の相貌が目に見えるようで、ツラい)

その関係性のなかで、「男という生理がとらえた世界の秩序感覚は伝わってくる」と森崎和江は言う。そして、こう考えた。

 

なるほど男とことばと世界との内的連関はそうなっているのか、と思い、針に糸を通すように、いつかはその思考経路にちいさな穴をうがち、細い絹糸で女の世界と結びあわせたいものだと考えた。なぜなら人はくりかえし生まれ、かつ産みつづけているのに、産みの思想が文化から消えて久しく、そこはあっけらかんと真空であり想像力すらはばたかず、物質生産の原理に人の生ま身も知力もうばわれているのはさみしすぎるから。ただただ、さみしいから。

 私は、人びとは死に対して想像力を育てたように、生誕に関してもまず女が口火をきることができれば、さまざまな角度から思想をかもし出し、生まれた人間から産む人間への過程をも意識化すると信じている。

 

生まれた人間から産む人間へ。

ここに書かれていることは、とても大事なこと。

単に、「「産む性」の想像力を重んじよ」ということではない。

「生まれた人間」の想像力の収斂されていく先が「死」であること、

人間は生まれた時点で、既に終わっているのだと言ってもよいのかもしれない。

産む人間の想像力を失った人間は、一個の死として生まれてくるのであり、その想像力には滅びがあらかじめ内蔵されている、(いや、再生という発想を持たない)

生まれた人間と産む人間の対比は、そのようなことにまで思い至らせる。

かつては産む人間の想像力・ことば・世界が確かにあったはず。

それはなぜ失われたのか、それをどうやってよみがえらせようか、

そんな問いを森崎和江は投げかけてくる。

 

いまいちど、なぜ、産みの思想なのか?

それは自然破壊に対する人間のたたかいの根源となる部分だから。そして家族は、「産み」の意識化にそって変転すると思う。社会の物質生産の原理におしながされて、労働力の再生産としての出産・生誕に閉ざされるのはごめんだから。性交と生誕の間に、ことばの川も橋もないなんて、人間としての恥だから。だいいちロマンがなのだもの。

 

 

 

「先例のない娘の正体」(1981年)より

 

戦後日本も、性は思想の問題ではなかった。わけても生殖、子を産むこと、はそうであった。人間のとらえ方が、思想界は伝統的に、人は生まれ死ぬ、というものであり、庶民のそれとはちがっていた。庶民は、わけても女は、人に生まれて、子を産み、そして死ぬ、という把握をして生きていた。産むことは生活の核であった。

 

森崎さんは「内発的」ということを思想の核に置く。

「産む」ということ、「生活」ということ、「生きる」ろいうことの内側から、底から生まれ出たのではない思想に、それとともに生きるべき「内実」が一体あるのか? ということをそれは意味しているのだと思う。

 

戦後社会の思想界は生命の生産に関する思想を生み出すことについて、まことに冷たいものだった。もっぱら生活資糧生産の次元での、世界認識や理論闘争にあけくれた。そのことが私をくるしくさせていた。たとえ物資生産の次元での不平等が是正へ向おうとも、また生活が豊かになろうとも、性は新しい生命につながるものだということに関する現代的思想がないかぎり、近代社会は足をすくわれる、と思った。 

 

 

闘いよりエロスを

闘争より愛を

 

 

この森崎和江の叫びを、いままたしかと聞き取ること、

この根源的叫びに、いま、自分自身の言葉で、自分なりの意味を与えること。

森崎和江『まっくら』メモ

出発点。

 

<はじめに>より

 

私には、それとも女たちは、なぜもこうも一切合財が、髪かざりほどの意味も持たないのでしょう。

 

愛もことばも時間も労働も、あまりに淡々しく、遠すぎるではありませんか。なにもかもがレディ・メイドでふわふわした軽さがどこまでもつづいているので、まるで生きながら死人のくにへ追われているようです。

 

女たちの内発性とまっこうから拮抗しないニッポン! 武士道! もののあわれ! 近代! そこにあるもろもろの価値に火が噴くような憎しみを感じた敗戦前後、あかんべえと舌を出すことを覚えました。心の底から日本という質をさげすんでいる自分の火を守りました。それはまるで民族的な訣別へ私を追うような強さで、私の歩みを押しました。

 

私は何かをいっしょうけんめいに探していたのです。そんな私が坑内労働を経験した老女をたずねあるきましたのは、日本の土のうえで奇型な虫のように生きている私を、最終的に焼きほろぼすものがほしかったためでした。老女たちは薄羽かげろうのような私を

はじきとばして、目のまえにずしりと坐りました。その姿には階級と民族と女とが、虹のようにひらいていると私には思えました。

 

 

<あとがき>より

後山たちはもうのっぴきならない捨て身の構えで働き暮していました。それでも子を産みたい欲望をもち、自分を主張したい意地をもっていました。生活のぜんぶが、人間的なものの抹殺であるようなぎりぎりの場で、労働を土台として、その生を積極的に創造しようとしました。働くことを生活原理として、理念としはじめた後山たちには、どんずまりという感覚のうしろに、なにか「始点」というようなえたいのしれない感動がうずきはじめたのです。

「働かなうそばい」という採炭気質があふれてきて、しぼられてもしぼられても能動的に生きました。後山たちは家というわくのなかで消えていく労働を、「働く」という概念にふくませておりません。主として労働力の再生産部門を受けもっていた家族内制度の女たちの、そのモラルをふみにじっていく快感が、あんたんとした坑内労働にちりばめられました。その場で愛と労働を同時に生きようとしました。その共感と抵抗が、後山たちを一様に朗々とした女にさせています。

 

 

彼女らをとりまくもののすべて――炭鉱外の倫理も抗外の制度も――は、彼女らの生をはかる機能をもちません。

 

こうした後山たちひとりひとりの意識の成長なり、気質の誕生なりは、すべて資本主義発展途上のしかもそれに基本的に随順したヤマの歴史のなかで起ったのです。彼女たちの明るさは、自然発生的で、ここにはぐくまれた抵抗の集りにすぎないともいえます。が、その水中の火打石は、無論理で気分的ではありますけれども、全女性史的にみてみますとはっきりと一群の意識の誕生を語っています。

 

組織化されなかった無産階級婦人の抵抗は、ひとりひとりのおばあさんのなかでは消えておりません。けれども抵抗集団そのものは挫折しました。そしてそのあとにつづくものは何も本質的に生まれてはおりません。一度の挫折も経験したことのない日本的母性は、いまもなお女坑夫の意識を奇型としてまるでかえりみることもしないのです。

 

ここには内側からぱちっと割れているような、あふれんばかりのエロスと力がありました。

 

 

私は、済州島の海女たちを想った。

石垣島の今は亡きナミイおばあ、沖縄最後のお座敷芸者を想った。

森崎さんが歩いた北九州の海辺、鐘崎の海女たち、

そしてさらに、森崎さんが海沿いに訪ね歩いた産小屋、そして八百比丘尼を想った。

 

森崎和江の、エロスと力、エロスと闘いを、いまいちど考える。

森崎和江に孕まれた、女たちの内側からぱちっと割れて生まれいずる、命の思想をいまいちど考える。「産みの思想」をいまいちど考える。

 

 

 

 

 

キム・ヨンス『夜は歌う』  メモ

 

1930年代 満洲東部 北間島(現在の中国延辺朝鮮族自治州)において「民生団」事件という、朝鮮人の抗日遊撃隊の根拠地における朝鮮人同士の虐殺事件が起きた。

それがこの物語の背景。

 

民生団(1932年2月~10月)という見慣れない団体については、水野直樹先生の以下の論文でその成り立ちと、性格が詳細に論じられている。

民生団とは、「植民地期朝鮮の親日団体の典型」と結論づけられている。

 

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その結論部分を以下に引用。

民生団は結成準備を含めても、満洲事変勃発直後から満洲国樹立をはさんで一年足らずの短い期間、活動を行なったに過ぎない。その活動も実際的効果をもたらすようなものではなかった。では民生団は満洲在住朝鮮人の歴史の中でそれほど大きな意味を持たない組織だったのだろうか。
  そもそも民生団が何を目標として結成されたものだったかについて、これまで定まった見解がない。当時、抗日パルチザンの側が民生団を「日本の特務」と見なしたのと対応して、日本当局側も民生団の主要目的を「共産主義運動の鎮圧」にあると見ていた。
  確かに抗日パルチザンに対する討伐・破壊工作もその活動の一つだったかもしれないが、その点ではほとんど成果をあげることなく解散してしまった。むしろその後に激化したパルチザン中国共産党組織内部の反民生団闘争こそ抗日パルチザンを危機に追いやるものだったのである。
  民生団自身が掲げた目標は、間島在住朝鮮人の生活の安定、そのための経済活動であり、間島の「自治区域化」であった。特に後者の運動を起こしたことがそれまでの朝鮮人民会との大きな違いだったといえる。そして、「自治」を掲げることによって、それまで日本に抵抗する姿勢を示していた勢力をも取り込むことに成功したのである。それは間島の朝鮮人自治」を日本当局が認めるかのような態度を取ったことに由来する幻想に過ぎなかったとはいえ、間島在住朝鮮人の動向を大きく左右することになった。その点にこそ民生団の意味がある。
  中国延辺で出た文献は、民生団の性格をつぎのように規定している。

 「民生団の成立、趣旨および綱領、組織活動から自発的解散までの全過程を分析するなら、民生団は基本的にいかなる“特務スパイ組織”でもなく、朝鮮人政客が公開で組織した親日反共の反動的社会団体である。」

  このような性格規定、評価の根拠は示されておらず、それを支えるような研究も延辺では発表されていないが、本稿で検討した民生団の結成過程などから、この評価はほぼ妥当なものといえよう。ただ、自治」のスローガンが「民族派」の朝鮮人勢力をも「親日反共の反動的社会団体」に加わらせる役割を果たしたことをこの記述に付け加えねばならない。
  ところで、民生団を親日団体と規定するなら、それはどのような「親日の論理」を持っていたのだろうか。この点を最後に考えておこう。筆者は、植民地期朝鮮を含むアジア諸地域に現れた「親日派」が掲げていた論理を、文明化・近代化論、差別解消論、反共論、アジア解放論の四つに整理できると考えている。民生団の「親日の論理」は、文明化・近代化論(朴錫胤ら)と反共論(全盛鎬ら)との複合であり、これに間島の特殊な事情から日本帝国主義支配下の「自治」論が付け加えられていると考えることができる。その点で民生団は、間島の特殊性が強く表われているが、植民地期朝鮮の親日団体の典型であったとみなすことができよう。
 

 

植民地のいわゆる「親日派」と呼ばれる者たちは、植民地権力によって与えられた「夢/枠組み」の中での、最大限の果実 を目指した。

(そこには、単純な自己利益(資本の論理)のための親日から、植民地支配から逃れようもなく苦しむ「民族」のために、支配者から最大限の恩恵を引き出すために「親日」をしたという、李光洙のような民族改良論的「親日」もある)

 

「民生団」に孕まれていた「満州に「朝鮮人自治区」が作られる」という夢は、その夢自体が満州国の成り立ちを揺るがしかねないものだったがゆえに、一瞬にして消える。

(「満洲国の樹立に多くの中国人を引き入れる工作を行なっていた関東軍や日本の外務省としては、間島の切り離しは中国人の反発を呼び起こすものであり、民生団の動きを牽制せねばならなかった」 上記水野論文より

 

そのつかのまの夢が、民生団(=親日派スパイ)という汚名を着せられた朝鮮人抗日革命家の大量処刑という無惨な現実を引き寄せることになる。

 

以下、『夜は歌う』の解説に沿って状況を整理する。

 

当時、コミンテルンによる一国一党原則のもと、中国共産党朝鮮人共産主義者が合流することになった結果、満州における中国共産党の党員の90パーセントが朝鮮人だったという。そして、中国共産党は、満州事変以降、朝鮮人党員が「朝鮮革命」「朝鮮独立」を叫ぶことを禁じる。まずは「中国革命」、それが達成されてこその「朝鮮革命」なのだと。

 

この状況下での、「民生団」というつかの間の夢、これほど厄介な疑惑製造装置はなかったというわけだ。

 

朝鮮人自治区」という、満州国内のまがい物の「独立もどき」に、それぞれの思惑を携えて短期間であれ集結した朝鮮人の動きは、一国一党原則のもとで中国人と共闘して朝鮮人の間に楔を打ち込む役割を図らずも十分に果たした。

 

日本側の討伐軍の攻撃が激しく凄惨をきわめるほどに、日本側と内通しているスパイ(民生団員=親日派)がいるのではないかと、疑念がふくらむ。

そしてスパイ(民生団)狩りがはじまる。

 

解説に列挙されているスパイ処刑の理由は実にばかばかしい。人間の愚かしさがあぶり出されたような理由ばかり。それだけに無惨極まりない。

 

① 「朝鮮革命」「朝鮮独立」を主張した。共産党への反逆。

② 日帝に捕まったのに逃げのびてきた。だから怪しい。

③ 日帝による処刑を生きのびた。だから怪しい。

④ 正体を隠すために一生懸命任務を果たしている。

⑤ 民生団の指令で仕事をサボタージュしている。

⑥ 飯粒をこぼして貴重な食料を無駄にした。

⑦ 故郷が恋しがって民族主義的な郷愁を助長している。

以下、省略

 

 

この無惨な風景は、国家と国家の境界の領域で闘う者たちにとっては、妙な言い方になるが、実に見慣れた、ありふれたものであったのではなかろうか。

(もちろん、誰も信じることのできない独裁者たちが引き起こす粛清、

  あるいは、不信を口実に都合の悪い者たちを消していくのも権力の常であるが)

 

敵か味方か、アカか否か、スパイか否か、

どっちつかずを罪とされて殺されていく者たち、

殺されまいとして、奴が敵だ、奴がアカだ、奴がスパイだと、根拠も何も関係なく密告する者たち

 

民生団事件に巻き込まれた『夜は歌う』の主人公はこんな言葉を吐く。

国を奪われ、よその土地で暮らすかぎり、僕たちにできるのは僕たちではない他の存在を夢見ることだ。いまここではないどこかを夢見ないのは、自分の生の主だけだ。

(中略)

動かなくなった死体だけが自分が何者なのかを声に出して叫ぶ権利があった。死体になる瞬間、自分の運命を最終的に納得するのだから。

(中略)

そんな叫びを聞くたびに僕は、間島の地で生きていく朝鮮人は、死ぬまで自分が何者なのかわからない存在だということに気づいた。彼らは境界に立っていた。見方によって民生団にもなるし、革命家にもなった。そういう意味で彼らはつねに生きていた。生きていれば絶えず変化するのだから。運命も変わるということだから。

 

他者の夢にのまれたらおしまいだ、というドゥルーズの呟きを思い出す。

 

これは、確かに、いったんは、間島の朝鮮人の物語なのだろう、

しかし<間‐島>という名は象徴的だ。

それは、他者の夢のはざまで、他者の夢に身を寄せることで生きてゆく者たちの場所の名でもあるようだ。

 

他者の夢に翻弄されて、死ぬまで自分の確かな名を叫ぶことのできない者たちの場所の名前でもあるようだ。

 

もし、「国」というものが、自らの夢を生きる者たちの共同体でありうるとすれば、(そんな儚い夢がまだどこかに生きていると信じることなど、私には到底できないのだけど)、その意味において、国を奪われずに生きている者など、今この世にどれほどいるのだろうか、とも思う。

 

『夜は歌う』の主人公のこの言葉、

「国を奪われ、よその土地で暮らすかぎり、僕たちにできるのは僕たちではない他の存在を夢見ることだ。いまここではないどこかを夢見ないのは、自分の生の主だけだ。」

これは、他者の夢に身を寄せて生きるほかない私たちすべての言葉でもあるのではないか。

 

私たちのことなどお構いなしの他者の夢のはざまで、他者の夢が醸し出す不信にまでわが身をそっくり預けて、他者の夢のために生きたり疑ったり憎んだり憎まれたり殺されたりする私たちすべての物語がここにあるのではないか。

 

自分以外の誰かを裏切者として憎むこと、密告すること、殺すこと、そうやって他者の夢に忠誠を誓うことで生きようとする者たちが跋扈する世界に、いま私たちは生きている。

 

殺されないためには、生きのびるためには、先に憎んで、罵って、殺すしかないのか。

 

いや違う、

歌え! 踊るんだ!

(そうだ、韓国のロウソク革命はそうやって成し遂げられたのだった)

 

それが、この物語の語り手のメッセージ。

老いぼれどもはもう踊れない。私は踊る人たちが好きだ。私もまた踊れたらいいのに。 (著者あとがき より)

 

 

 

 

 

 

 

 

ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』 メモ

2020年暮れから読み始めて、2021年元旦に読み終えた、今年最初の読了本。

 

いきなり、こう始まる。

私の名前はアリシア。女装ホームレスとして、四つ角に立っている。

君はどこまで来たかな。君を探して首をかしげているよ。 

 

 

アリシアがいかにしてアリシアになったのかという物語が、アリシアによって語られてゆく。「君」に。

まだアリシアのもとにたどりつかない「君」に。

アリシアはくりかえし「君」に尋ねる。

君は、どこまで来ているかな。

君に、アリシアの季節のことを話したい。

 

アリシアは暴力にさらされている、

アリシアとは、落ちても落ちてもひゅうひゅうと穴に落ちつづけてゆく少年アリスなのだという。

穴は底なしだ。

 

君は、どこまで来ているだろうか。

 

アリシアの父が犬を煮ている。

「君」とはアリシアを不快がる「君」だ。

アリシアも、アリシアの物語も、ついには他のすべてのものと同じように消えていくという「君」だ。

アリシアと同じように、この街のどこかで夢を見ている「君」だ。

 

アリシアは最後に言う。

君はどこにいる。

君の番だ。このことを記録するただ一人の人間である君、君はどこまで来ているのか。

このことをどこまで聞いたか。

このことを記録したか。とうとうここまで聞いた、これらのことを。

アリシアが君を待っている。 

 

「君」とは、アリシアの物語を聴きつづけた「私」なのだということを、私は知る。

私はアリシアがついに語ることのできなかった、ついに名を呼ばれることのなかった弟の物語を、私/君とアリシアの間に宙ぶらりんにして残していく。

 

「弟」にたどりつくまで、アリシアの物語は終わらない。その痛みにたどりつくまで物語は終わらない。物語はゆっくりと実にゆっくりと痛みが骨の髄まで届くまで、終わることはできない。

 

いま、アリシアはどこにいる? 君はどこにいる?  私はどこにいる?

語られるべき物語、聞き届けられるべき物語はどこにある?

 

アリシアが「君/私」に語った物語/痛みについて、私はここでは語らない。

それは「君」自身が聞き取るべき、そして生きるべき物語/痛みだから。

 

 

2021年最初に観た映画は、小森はるか監督『空に聞く』

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やはり小森はるかは「座敷わらし」なのだな、と思いつつ、スクリーンの中の人々の声に聞き入った。

(前作『息の跡』を観た時にそう思った。)

 

聞き手(小森)には、ことさらに聞こうとする気配がない、ただそこにいる。

聞き手は、ことさらに「聞く場」を開かずとも、もともとそこにある「声が行きかう場」の片隅にちょこんと座っているだけのようである。

ちょこんと座る「耳」。その「耳」が語り手(主人公阿部裕美さんと、彼女と「声」で結ばれる陸前高田の人々)の声を、私たちのもとにもそっと送り届ける

(この「そっと」というのが、とても大事)。

 

あの頃、陸前高田には、復興への「大きなかけ声」と、復興のための嵩上げ工事の絶え間ない「音/ノイズ」の中に埋もれている、無数の小さな声、呟き、くぐもる声、押し殺された声、つまりはそこで生きていく人々の声があった。

(と、私もまた映像の中の声に聞き入りつつ、あらためてそのことに気づかされる)

 

この映画は、震災後の復興の過程の中で、それぞれの命を生きる「声」たちの映画であると同時に、その「声」たちを聞きたい、その「声」たちとともにここで生きていきたい暮らしていきたいと願う「耳」たちの物語のようにも思われた。

 

私は、ラジオというものが、それ自体が大きな耳になることにも気づかされて、ハッとしたのでもあった。

 

陸前高田災害FMパーソナリティの阿部裕美さんは、常に陸前高田の誰かの声を聞き、誰かに語りかけているから、(ラジオというのは、なんと親密な声のやりとりを可能にするメディアなのだろうか)、映像をとおして阿部さんを観る私たちは、真正面から阿部さんの声を聞くことはほとんどない。

これは小さな心の「声」を行き交わせている者たちの、横顔の映画のようにも思われた。

(横顔でなければ、ちょっと上を向いているんだよね)

 

真正面から相手を見据えて語る者の多くは、たいてい、自分の本当の声を見知らぬ誰かに不用意に盗まれまいと、見えない鎧をまとっているものだけど、横顔の彼らには鎧がない。(それは監督の座敷わらし小森に対しても同じ、さらには小森自身もまた同じだ)

 

姿は見えないけれど、ラジオから流れでる声を聞いている人々がいる。

そして、その人々に向けて語りかける人の横顔。

(ラジオから流れでる声を聞く人々の横顔も私は思い浮かべる)

 

ラジオとはそもそもが、互いに姿が見えない者同士の対話なのだということにも思い至る。

 

見えない者といえば、こんな光景もあった。

陸前高田の、ある地域の七夕の山車には、地上に生きている者には見えない部分に、空に向けて、「おかえりなさい」と書かれているのだと、(陸前高田の空には震災で地上を去った人々が暮らしているのだ)、そのことをとても大事に思っている小さな声が、七夕の実況をする阿部さんに耳打ちする、やはりそのことをとても大事に思って、それをラジオの向こう側の人々に耳打ちする阿部さんがいる。

 

このラジオは、毎月11日に空に暮らす人々に向けて、沈黙の黙祷の時間を持つ。

黙祷の時間の始まりに、毎月同じ言葉をラジオで語りかけるなら、録音した音声を使うことは考えないのかという、大きなメディアに関わる者からの愚かな問いに、「ばかじゃないの」と答える阿部さんもいた。

 

(ほんとにバカだね。対話を録音で済ます者がどこにいる? 祈りを録音で済ます者がどこにいる? 死者も生きていることを知らないなんて、ほんとにバカだ)

 

この映画を観ている73分間は、

死者や行方不明者を数字でカウントしていくような、過去を置き去りにしていくような者たちが発していく「復興のかけ声」とは異なる、

それでもここで、地上の人々も、空の上の人々も一緒に、この人々と生きていくのだと思い定めた人々の、ゆっくりと、みずからの命の速度で明日を眼差す「声」に耳を澄ませる時間。

 

その声は、過去にも未来にも伸びてゆく、

けっして忘れられても蔑ろにされてもならない、

命の声でありました。

 

座敷わらし、おそるべし。

映画『Cu-bop across the border』を観た。

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<映画を観た直後に友人に送った、ちょっと興奮気味の手紙>

 

CU-BOP、本当に面白かった!

 

ちょうど、ほんの数日前に、いわゆるK-POPと韓国の伝統芸能(放浪芸)の歌と語りの違いという話を韓国のパンソリの唱者とやっていて、

どんなにK-POPがかっこよくパンソリを取り入れても、パンソリのリズムはK-POPの中では殺されて、単純な2拍子に変換されてしまう、ということを話したばかりだったんです。

純化されたパンソリ。↓ この音です。

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その一方で、ジャズとの共演では見事にパンソリはその固有のリズムで歌い語る。

サムルノリという韓国独特のパーカッションのリズムとジャズが見事に響き合う。

人間の揺らぎも含んだ身体の律動、伸び縮みする呼吸のリズムで繰りだされる5拍子とか、12拍子とか、そんなリズムがジャズとなら見事に生きる。もっと尖った響きに生まれ変わる。

 

(たとえば、この音)

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何が言いたいのかというと、韓国の5拍子も12拍子も韓国の風土が育んだ命のリズムであるわけなのですが、そのリズムのままセッションができるのはジャズだけなのだということ。

そのことと、映像に刻み込まれたCU-BOPの空気の震え、つまり、キューバに生きるアフリカ黒人の末裔たちの命のリズムと、アメリカで生まれたアフリカ黒人の末裔たちの命のリズムの賜物であるCU-BOPが、なんだか私のなかで重なり合って、響き合って、いきなり腑に落ちて、「ああ、この島(キューバ)にはまだ命のリズムが脈打っている」と、ひとり感動してしまったんですね。

(なぜか「ブエナビスタ」ではさほど感動しなかったんですけどね。というか、感動の方向性が違っていたような気がする)

 

奴隷たちは支配者から太鼓を取り上げられた、と確か映画の中で言っていたように思います。

たとえ、太鼓は取り上げられても、踊るカラダ、歌うカラダがあるかぎり、音楽は自由へと向かって疾走する命の水脈となりましょう。

資本に向かって疾走する音楽なんぞ、クソくらえ! です。

歌の神様が人間の一人一人に宿っている(ナミイおばあの教え)ことを忘れていないカラダ(=命)は、生きているかぎりは歌い踊るしかないでしょう。

そのことを、いまいちど、CU-BOPの響きでつくづく思い知って、

それで慌ててキューバ行きの航空券を調べたりして、

ああ、キューバに行きたーい! 

などと叫びながら、映像の中の彼らの演奏を聞きつづけていたのでした。

 

見えるものから<見えない世界>を探る技法

という話を、先日、オンラインで聴いた。

講師は佛教大学の斎藤英喜先生。いざなぎ流の研究者。

 

見えるものから<見えない世界>を探ると言えば、まずは占いだろう。

そこで、陰陽師が登場する。

「平安朝中期の王朝社会において、天体から発せられる災いのメッセージを読み取り、また時間の流れを計測して暦を作り、あるいは鬼を追い祓う儀礼や呪詛祓え、病気治療などに携わっていた」者としての、陰陽師だ。

 

当時、見えない世界を管理するのは国家であり、陰陽師の属する陰陽寮がその職務を担っていた。

陰陽師は天体の動きに、天皇一族の運命を見てとって、その対策を講じる。

蘆屋道満vs安倍晴明の宮中陰陽師合戦を思い出す……)

 

こんな話を聞いていて、いまさらながら、あらためて、

なるほど、下々が見えざる世界を見ることは、権力にとっては実に危険なことだったのだ、

太古より、下々は見えるものだけを、それも権力者が見せてもよいと思っているものだけを見ていればよろしい、

それが、政治と宗教が結びつく何よりの理由であり、

(政治が宗教を弾圧する何よりの理由でもある)、

というようなことが感覚的に、なんかこうストンと落ちてきたのでした。

 

そういうわけで、ますます、見えないものがたちあがってくる「語りの場」を開いていかねばなるまいと、思った年末でした。

(なんのこっちゃ)

 

ただし、いざなぎ流の太夫曰く、

「見えすぎるということは危険なことである。」

「見えているうちはまだ一人前の太夫ではない。」

「見えない世界を見る力をコントロールすることが大事なのである」

 

 

 

 

つまり、国家以外は、見えない世界にアクセスしてはならぬ、