「記憶のケア」 川本隆史が提唱する概念  メモ 

記憶の継承、共有、伝承のために。

 

広島出身の川本隆史は、固定化された記憶と言う意味での、いわゆる「原爆神話」のゆがみや欠落を丁寧に見直す作業を通じて、固定観念へと凝固した「記憶」をほぐしつつ、共通の認識に向かって歩むことを考えた。

そして、そうした営みを「記憶のケア」と呼んだ。

 

※たとえば、被ばく一世の「記憶」からは、中国大陸・朝鮮半島出身の被爆者の存在が欠落しがち。

 

※あるいは、原爆を一種の天災のように受けとめ、アジアへの侵略加害責任が棚上げされてきた。

 

[「記憶のケア」を通して「記憶の共有」を目指すための3つの手立て]

① 名前と身体をもつ一人ひとりの個人とそのつながりから出発すること

 

② 記憶の弁証法  これはたとえば、被爆の「被害者」としての記憶と、戦争加害と植民地支配を支えていた「加害者」としての記憶が一人の人間の身体に刻み込まれている、その者が、「語りながら調べ、調べながら語ることにより、語る自分(とその記憶)が変わっていくプロセスを指す。

 

③ 対立・競合する複数の記憶の中から、価値についての「部分的に重なり合う合意」を探り当て、それを積み上げる。

 これはたとえば、原爆をめぐるさまざまな価値判断があるなかで、「戦争または紛争時でも非戦闘員を殺してはいけない」という原則をどの立場からも「重なり合う合意」として、記憶のケアの出発点とする、というような。

 

以上が、川本隆史が「記憶のケア」を着想したときの出発点。

 

 

[次なるプロセス]

 

東日本大震災の経験。

 「瓦礫」という括られ方への被災当事者の違和感に触れる。

 

石原吉郎の「広島告発」批判とそれへの応答としての栗原貞子「知って下さい、ヒロシマを」をめぐる考察

 

栗原貞子「知って下さい、ヒロシマを」の一部

一人の死を無視するが故に/数を告発するヒロシマを/にくむ という 詩人Yよ/ヒロシマナガサキの三十万は/日本人だけでなく、/強制連行された朝鮮人や/中国人の捕虜、東南アジアの留学生も、/異国の戦争に捲きこまれ/焼けただれて死んだことを/知って下さい。

 

一人の死を無視する数のヒロシマを/にくむという詩人Yよ/あなたなは なぜ問わないのです/陸や海、空や宇宙にまで/核を配備して 世界中の 赤ん坊や/としよりにいたるまで/みなごろしにする大国の/人間の顔をした死の神々を/もう時間はない/ゼロアワーまで三分しかない

 

「脱集計化」「脱中心化」というキイワード、その企図。

 

◆脱集計化アマルティア・セン の手法にヒントを得る。

脱集計化とは、概念というよりも、問題にアプロ―チする際の構え方である。センによれば、これまでの開発経済学は、富と貧困の指標として、国民生産や総所得、総供給といった集計化されたデータに関心を集中しすぎる傾向があった。…中略…究極的に重要なのは、具体的な顔をもつ個人の福祉の増進である。しかし、そこまで一挙に脱集計化を進めると経済分析としては意味をなさない。そこでセンは、個人と国家のあいだのさまざまな中間項に注目する。すなわち、一国の経済が困難に直面する場合、それが地域、所得階層、職業集団、性別、年齢の違いに応じて人々に不均等に打撃を与えていくプロセスを、できる限り丁寧に検証しようとするのである。

 

◆脱中心化

「内側」から囁かれる何かを「外側」から受け取り、そしてもっと「外側」の誰かへ伝えようとする――”当事者性の「脱中心化」とは、こうしたたゆまぬ努力の謂いなのです。

 

※たとえば、こうの史代この世界の片隅に』に、川本隆史は「脱集計化」と「脱中心化」を見出す。

 

 

 ◆さらに、川本隆史は、「原爆神話のような記憶から、パーソナルな「記憶のケア」へと歩を進める。

 

川本さん曰く、

大塚茂樹さんが丹念に集録した地域史『原爆にも部落差別にも負けなかった人びと――広島・小さな町の戦後史』(かもがわ出版)も、私の「記憶のケア」を強く促します。…中略…同書に活写されている被爆と差別の実態や息の長い住民運動に関して、乏しい記憶しか残っていない私に深い反省を強いる内容でした。大塚さんの本を精読するうちに思い起こしたのは、「哲学者の仕事は、一定の目的に向かって諸々の記憶を織り上げることだ」というウィトゲンシュタイン箴言です。「記憶のケア」とは、「脱集計化」と「脱中心化」を縦横に組み合わせつつ「一定の目的に向かって諸々の記憶を織り上げる」骨折り仕事以外の何ものでもありません。

 

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この「記憶のケア」という方法論、概念を、当事者から非当事者へと記憶を受け渡していくときに、意識して用いていくことを考えている。

 

それは、数か月前に意図せずしてはじめた<『気仙沼リアスアーク美術館「被災物」展示』プロジェクト>への関わり方についてのより深い思考へとつながっていく。

「被災物」の前に立った非当事者が、自身の「被災物」の物語を立ち上げてゆく、という試み。

 

① 震災の記憶を宿した「被災物」がある。

(生活を共にした「物」は記憶の器でもある。被災者の記憶と被災物の記憶は分かちがたくそこにある。)

 

② その「被災物」(たとえば、それがミシンだとする)の前に立つ非当事者A(非被災者)が、みずからの「ミシン」にまつわる記憶を思い起こす。

 

③ みずからの「ミシン」をめぐる物語がそこにおのずと立ち上がる、その「物語」は「被災者自身の被災物の記憶」と重なり合う形で、そこにある。

 

④ 被災物の記憶を介して、被災者の記憶が非被災者に転移していく回路が開ける。

 

⑤ 非当事者Aが、被災物(ミシン)の前で想起した自身の「ミシンの物語」を語る時、その背後に存在する「被災の記憶」を忘れることはできない。

 

⑥ その物語は、さらに、B、C、D、と「被災の記憶」が転移(継承)していく回路となるだろう。こうして、記憶の継承、共有、伝承の網の目が作られていくことだろう。

 

写真の説明はありません。

 

 

森鴎外『山椒大夫』  気になる枝葉の言葉  メモ

① 信者

向うから空桶からおけかついで来る女がある。塩浜から帰る潮汲しおくみ女である。
 それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
 潮汲み女は足をめて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気じんきが悪いのでしょう」
 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
 潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地です国守くにのかみおきてからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札たかふだが立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはおとがめがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」 

 

信者と関連があるのだろうか。人買い山岡は数珠を手にしている。

はいって来たのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫げぼりの人形のような顔にみをたたえて、手に数珠ずずを持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。

 

※ここで言う信者は、浄土真宗の信者だろう。

 (鴎外にとっては、説明するまでもないことだった?)

 

ちなみに、佐渡から来た人買いはこう言う。

 

母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
 佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓ぐぜいの舟、着くは同じ彼岸かのきしと、蓮華峰寺れんげぶじ和尚おしょうが言うたげな」

 

※弘誓の舟:仏語。衆生救済の誓いによって仏・菩薩 (ぼさつ) が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語。誓いの船。

 

※蓮華峰寺は佐渡真言宗の寺。 仏教用語が、恐ろしい言葉に変換されている。

 

② 安寿と厨子王の母の受動性

 

荒川にかけ渡した応化橋おうげのはしたもとに一群れは来た。潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女のことばにたがわない。
 人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議せんぎをしたらよさそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命をなげくだけで、掟の善悪よしあしは思わない。

 

子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれにあらがうことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。

 

この項、つづく。

 

8月6日 原民喜の詩を読む    黙祷

碑銘

遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻

 




風景

水のなかに火が燃え
夕靄のしめりのなかに火が燃え
枯木のなかに火が燃え
歩いてゆく星が一つ


 

悲歌

濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頬笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

「場」をめぐるメモ

イメージの水底へ降りる、と今福さんは言った。

(きのう「原写真論」の刊行記念トークを聞きに京都まで行ってきたのだ)

(そうか、やはり、水なんだな)

 

言語的な限界をイメージで突破できないか、とも今福さんは言った。

(言語は言語であること自体に、既に限界があるのだな)

 

言語的な限界を言語で突破しようと、

言葉に言葉を重ねるほどに、

論理に論理を積み重ねていくほどに、

言語はみずからどんどん限界の中へと押し込まれていくものなのだ。

 

言語的な限界を突破するには、水のように、風のように、脈々とながれゆくものとしての言語を感じること。

 

言語をわがものとして所有しないこと。

(イメージもまた、わがものとして所有しないこと)

(所有、とは近代文明の狭量で傲慢で強欲な仕組みであることを忘れぬこと)

(なにかを所有する存在としての「私」という主語を捨てること)

思うに、言語は自他の境を超えたところを流れる水であり、風であるべきなのだ。

 

たとえば、私はここで「言語」と言いつつ、誰のものでもない(それゆえに誰のものでもある)「物語」のことを思っている、

「物語」が語られる「場」のことを思っている。

「場」とは、「泉」なのだなとも思っている。

「泉」、イメージの水底から湧きいずるものとしての「場」

 

イメージの水底には、「原写真」があり、「原物語」がある。

「原写真」「原物語」は主語を持たない。

 

「私」のものではないものを、私の声で語る。物語。そのことをずっと考えている。

 

そう考える私は、「私」という主語が問題だと繰り返し語った森崎和江の声を身に沁み込ませている。

 

「中動態はアナキズム」と言った栗原康の言葉も思い起こしている。

文明以前には、動物や自然を所有するという発想はありえなかった。

能動態を土台とした認識の枠組み。それがものがたっているのはなにか。支配だ。ものごとを主人と奴隷の関係でとらえるということだ。主人の欲望を生きるということだ。主体(subject)であるあなたが、わたしを対象(object)として把握する。

(『サボる哲学』より)

 

「場」を開くこと、

強欲な世界の岩盤に「穴」を穿ち 湧きいずる泉のまわりに集うこと、

誰のものでもないけれど、同時に私の体から湧きいずる水の声で語ること

誰のものでもないけれど、同時に私の体から生まれいずる風の声で歌うこと、

 

そういうことを、ずっと考えている

言葉は ぽつり ぽつり

泉から湧き出る 水のしずくのように

ぽつり ぽつりと 石を穿ち、岩を砕き、

忘れられた地下水脈をめざして降りてゆく 水のしずくのように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メモ「祭文」について。 (復習)

祭文とは、祈願・祝呪・讃歎の心を神や仏にたてまつる詞章。

そもそもは陰陽道系の呪詞、神・仏・儒のいずれでも用いられた。

 

平安時代中期以降に、信仰とは関連の薄い「祭文」がつくられる。

神事・仏事の俗化とともに、「祭文」も俗化してゆく。

祭文俗化の担い手は山伏。

娯楽本位の「もじり祭文」の登場 → 「歌祭文」へ。

 

祭文 此山伏の所作祭文とていふを聞けば、神道かと思えば仏道、とかく其本拠さだかならず、(中略) 多く誤あれども知らぬが浮世なり。それさへあるを江戸祭文といふは白声(しゃがれ声)にして力見を第一として歌浄瑠璃のせずといふ事なし。かかる事を錫杖にのせるはさても悲し、勿体なし (『人倫訓蒙図彙』七 1690) 

 

元禄期(1688年―1704年)には完全な大道芸。「祭文語り」と称する山伏の格好をした芸人が、江戸時代には盛んに門付けをして各地を回る。錫杖、金杖、法螺貝等を携えて。

 

俗化し、芸能化しても、語りの形式は祭文の型をふむ。

最初に、たとえば、「抑はらひ清めたてまつる」「抑勧請下ろしたてまつる」

末尾に、たとえば、「その身は息災延命諸願成就皆令満足敬って白す」

 

『摂陽奇観』(1818~)には、薩摩派説経祭文と同様、三味線の入った歌祭文が記録されている。

歌祭文の事 生玉の境内賑はしかりし頃は、ここに名代の歌祭文とて葦簀囲ひのうちに床を設け、一人は錫杖をふり一人は三絃を鳴らして祭文を語る。

 

 

メモ 「説経」について。(復習)。

そもそもは「説経」とは、仏教の「唱導(仏法を説いて衆生を導く語りもの)」を源とする。 

唱導師による「説経」。これは、関山和夫によれば、「節付説教」の意。

単なる説教(法話)ではなく、語りのパフォーマンスになっているということ。

これは、たとえば、寺の単なる法話と節談説教との違い、あるいは、キリスト教会の牧師の説教と、黒人教会の牧師の歌い語り踊る説教との違い、というふうにも言えるだろうか。

 

※ 「説経(せきょう)の講師は顔よき……」(枕草子

 

◆説教(唱導)から説経節(説経浄瑠璃)へ その1 (郡司正勝

仏教の説教から唱導師が専門化され、声明からでた和讃や講式などをとりいれ、平曲の影響を受けて民衆芸能化したものが説経節である。

 

◆説教(唱導)から説経節(説経浄瑠璃)へ の2 (前田勇)

平安朝の中期に三井寺所属の説経僧が経文の俗解をしたり仏菩薩の縁起を説いたりしているうちに音声的要素が次第に強まり、室町末期には浄瑠璃より先にすでに人形と結んだものもあり、ほとけまはしと呼ばれたという』(『上方演芸辞典』より)

 

鎌倉末~室町初期の頃に、唱導の節付説教が芸能化して、それを語る放浪芸人が現われる。

また、各地に、説教僧をまねて「説経」を業とするものが現われる。民間の唱門師(声聞師)の出現。

唱門師らは、仏教の譬喩因縁ばなしをササラ、鉦、鞨鼓を伴奏として語り歌い、門付けして歩いた。ゆえに「門説経」とも呼ばれる。

あるいは、歌の側面を強調すると「歌説経」。

 

「門説経」「歌説経」は放浪芸の系統。

一方、人形操りと一緒になった小屋掛け興行系統の「説経座」もあった。

説経座は関清水蝉丸宮の配下に属していた。

 

芸能としての「説経」の正本は、江戸初期、寛永の頃より盛んに出版された。

「五衰殿」「阿弥陀胸割」「梵天国」「目連尊者」「釈迦の本地」、

「山椒太夫」「刈萱」「俊徳丸」「小栗判官」「愛護の若」等々。

 

仏教色(本地物)・物語の単調さ(大胆な脚色ができない)ゆえに説経座は衰退。

放浪芸として命脈を保ってゆく。

 

そして、江戸後期に、祭文・ちょんがれと結びついて寄席演芸となっていた「説経」に、三味線をつけて再興したものが登場。「説経祭文」薩摩若太夫による。

※説経祭文語り 渡部八太夫はその13代目(現在は名跡返上)。

薩摩派説経祭文もすぐに飽きられて、江戸の寄席から消え、若太夫名跡は6代目から江戸を離れ、板橋、多摩地域で受け継がれてゆくことになる。

さらに、放浪芸に立ち返った説経祭文は旅する芸人によって、さまざまな地方へとその痕跡を残すことになる。

 

放浪芸としての「説経」は、定まった座を持たず、寺の縁日などで小屋掛け興行をした。それゆえ「説経」の太夫は寺院との関係が深かったともいう。

多摩の「説経祭文」の場合は、その担い手は神楽師であったり、陰陽師であったり、いずれにせよ、その土地の芸能を担う者たちによる。

(多摩や相模や埼玉の神楽師たちが、土御門から陰陽師の免状をもらっていたのは、芸能者として興行をするため、と推測される)。

「生の悲しみ」 (『声 千年先に届くほどに』ぷねうま舎 より) 韓国語版

「생(命)의 슬픔(生の悲しみ)」  (原文日本語  韓国語訳:金利真)


사람은,

외로움도 슬픔도 아픔도, 결코 메워낼 수 없어서,

다만 한 가지 가능한 것은, 

존재의 외로움, 존재의 슬픔을 함께 바라보고, 

함께 있는 것 일테지.

존재의 심(芯)에 머무는 외로움과 슬픔이나 아픔을,

순간의 기분 좋음과 즐거움과 또 다른 무언가로 메워보려 한 들

그건 애초에 불가능한 것이니까,

-

왜냐하면, 오롯이 혼자 태어나서, 단지 홀로 죽어가는 생명 그 자체가, 

애초에 슬프고 외로운 것이기에

-

인간이 할 수 있는 거라곤, 생명의 슬픔을, 

한 순간, 찰나의 기쁨으로 잊어버리는 것 정도일 뿐.

그 찰나를 겹겹이 쌓아서 슬픔으로부터 헤어 나오려는 욕망에 몸을 빼앗겨버리면,

그것은 한도 끝도 없다.

욕망을 쌓으면 쌓을수록, 얼버무림과 눈속임의 비루함은 끝이 없어,

생명은 더욱더 슬퍼한다,

뿌리 없는 기쁨에 발을 차이기만 하는 어리석음에, 

생명은 더욱더 상처 입는다,

사는 것이 더 부끄럽고, 외로워진다.

 

그러나 단 하나,

기댈 곳 없는 생명이,

서로의 어찌할 바 모를 무의무탁을 느끼고,

그 기댈 곳 없음에

다만 몸을 기울일 수 있다면

탐하지 않고, 원망하지 않고, 미워하지 않고, 기대지 않고, 내치지 않고,

다만 그 슬픔의 온도를 가만히 느끼며,

옆에 있을 수 있다면.

 

그렇구나, 너도 슬프구나,

그래, 나 또한 슬프다. 

너도 나도 둘 다 슬픈 생이다.

너의 슬픔은,

그것이 너의 슬픔이기 때문에 애틋하다.

나의 슬픔은,

그것이 나의 슬픔이기 때문에, 너는 나의 슬픔이 애틋하다.

 

너와, 나는,

함께 있는 것의 슬픔을 택한다.

그것을 사랑이라고 부른다면, 사랑이어도 좋다.

각오라고 한다면, 각오여도 좋다.

그 무엇으로 불러도 좋다.

 

함께 있는 것을 정해낸 그때,

생의 슬픔에서, 사는 것의 기쁨이 곤곤히 샘솟는다.

기쁨의 심에는, 생의 슬픔.

이 슬픔을 마음을 다해 사랑할 수 있다면,

사람은 길을 잃지 않고 살아갈 수 있으리라.

진정한 생을 살리라.

 

-姜信子 『声』(2015)-