2014年9月7日、猿賀神社例大祭の日に、神社本殿前に翻っていた幟には、「猿賀深沙(さるかじんじゃ)大権現」。
『安寿 お岩木様一代記奇譚』のうちの「猿賀神社の片目魚伝承」にこんなことが書かれている。

 「いま猿賀神社の主神は上毛野君田道命(かみつけのきみたみちのみこと)とされるが、藩政期の二世紀余にわたり密教寺院の別当が一山を支配していた神宮寺時代は、深沙大権現が奉じられていた。この神格は仏典にいう深沙大将のことで、般若経を守護する十六善神として玄奘三蔵につきそい、七世紀にインド往還を果たした護法の鬼神」。

深沙大将は、左手に青蛇、両足は蓮華の実の上に立つ。この神はもとは流沙の神で、つまりは『西遊記』の沙悟浄のモデル。
観世音菩薩の化身として、眼を患う者に杏仁の油を塗って加持し、障りを取り除くともいう。(「深沙大将儀軌」)


そこで、猿賀様の深沙大権現の謂われを太古の昔までさかのぼって、たどるならば、
まずは、蝦夷平定で敗れて死んだ田道将軍の墓から大蛇が現れて、墓を暴いた蝦夷を食ったという神蛇伝承があった。(日本書紀
そして、大蛇⇒神蛇(しんじゃ)⇒深沙(じんじゃ)という音つながりで、藩政期に深沙大権現が祀られるに至ったのであろうとも言われている。

深沙大将はそもそも真言宗特有の奉教鬼。空海の直弟子の常暁によって平安初期に広められたという。
深沙大将沙悟浄だから、そして沙悟浄が負う笈の中の般若経には、延命・健康の功徳がある。
鎌倉後期以降、深沙大将玄奘三蔵と一対で作られるようになったともいう。

さて、「猿賀山縁起」にいわく、
「乱世に蝦夷が蜂起したら深沙大権現の前で大般若経を誦すれば、怨敵退散は疑いなしとまで俗に伝えられた」
みちのく・津軽というこの土地で神の謂われを語るときには、どうしたって蝦夷の影がある。
蝦夷と深沙大権現と猿賀様と・・・・・・。

なにより、この深沙大権現が眼を患う者の神だということも忘れてはいけない。

津軽のイタコは「猿賀の一代記」もしくは「ねぶたの由来」というイタコ祭文をかつて語っていた。(語り手:桜庭スエ。採録;竹内長雄)

今まで活字化されていなかったこのイタコ祭文のあらましは、『安寿 お岩木様一代記奇譚』の坂口昌明によれば、下記のとおり。

「猿賀様は菅の笠と葛が嫌いだから、来るときは身につけるなという。そのいわれは、昔この世はアイヌの世で、猿賀様は人間の時代にするにはどうしたらよかべと考えた。あるとき目が悪くて猿賀様に一夜の行をしたお方が、このアイヌを取るには菅の笠かぶって、葛に身をからめて、手前の乗っている蛇体に三度も火を吹かせれば、アイヌもいなくなると知らせた。そこで猿賀様は火を吹かせると、人間の世になってこれは喜びだ。それで葛、菅の笠をつけて鳥居をくぐらないでけろ。くぐれば蛇体が荒れるというのである。喜んでいるうちに、さざえ竹丸というケダモノが光を出して飛び越えた。見た者には病気がとりついたりして、人間がさんざんに悪くなる。それを取るには国の猿賀様に七月一日からねぶたという神をこしらえて、七日に納めるようにすればよいと言われ、ねぶたを出した。そしてむがしの時代から、猿賀池のざこ、片目が見えない。何のいわれと致すれば、目の見ない修験がら、国の猿賀様、二回の災難もしのがせでもらたるために、猿賀池のざこ、片目をぬすんで、その修験につけてくれたるなれば、眼の見ない修験は、眼はばっきど、片目は開いで、国の猿賀様、眼の神様のあらわれだじゃ、この事だや。人間だち、良ぐ神信仰唱いるべし」

この祭文のイメージをのたりくたりと貫くのは、蛇。そして盲目の闇と光。

蛇が宿っているのは、猿賀神社境内脇(東側)の猿賀の鏡ヶ池(旧名 弁天池)。
「ここから十二森の間にはたくさんの社地があった。それゆえ猿賀は昔からの神聖地であった。多くの物語はたいていこの池に縁故づけられる。池の主は大蛇であった」

蓮の花咲く鏡ヶ池。池の中島には胸肩神社(弁天宮)。
池の辺には閼伽井堂(水天宮)。祭神は水波能売命(ミヅハノメ)。
(※『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神であり、龍の形をとるとも言われる)。
つまりは、水天宮の神は龍であり、それは蛇神でもある。この堂の天井には蛇が這う。
大蛇と化した田道命と、青蛇を手にする深沙大将と、記紀の水の神のミヅハノメと、水辺で神蛇シンジャ、深沙ジンジャと神仏習合

猿賀様の例大祭の宵宮では、かつて、この鏡ヶ池の畔で、イタコが盛大に口寄せの小屋掛けをした。
私が訪ねた2014年9月7日は、もはやたった一人しかイタコはいなかったが・・・。そのイタコは晴眼者だった。

かつて目の見えぬイタコたちが語った猿賀様の物語がある。そこには消された蝦夷の記憶も潜んでいる。そこには盲目のイタコの切なる願いも刻み込まれている。

その昔、猿賀様では、瓢、瓶を携えて、池の辺の閼伽井堂の水を汲んで帰る眼病人があとを絶たなかったという。


ちなみに、猿賀(サルカ)という地名には、アイヌ語説と日本語説の二つがある。そのうち説得力のあるアイヌ語説は以下のとおり。
アイヌ語の「サラッカ・カムイ=異変の神」に由来する。(バチェラーのアイヌ語辞書にもとづく竹内運平の説)、
あるいは、「サル=湿った沢・湿原」プラス「カ=上」から来たのではないか。(知里真志保『地名アイヌ語小辞典にもとづく山中襄太の説)。