『戦争に抗する ケアの倫理と平和の構想』(岡野八代 岩波書店)より、メモ。

自分のなかで曖昧であったり、分かっているつもりだったことをあらためて知る読書。


「音速より速く戦闘機や武器がやってくるというのに、耳を傾ける時間もないような多くの言葉を並べ立てることに、なんの意味があるというのか」


いま日本で安倍政権が行っていることは、9・11以降にブッシュが米国で行ったことをなぞっているにすぎないということ。
ナチズムの模倣などという言葉は、もっと身近で起きていることを覆い隠してしまうかのようだ。
ナチズム、よりもむしろ、ブッシュの「ネオ絶対主義」

「法による支配」から「人による支配」。
それは、9・11を契機に、「テロとの戦い」を口実に、ブッシュ政権によってたやすく実現されてしまったということ。

1.合衆国は、第2次世界大戦後、実質的に、現代的な武器を理由に、国会ではなく、執行権をもつにすぎないはずの行政府に憲法を超える決定権を与えてきた。すべての宣戦布告は、憲法に則り国会によりなされたのではなく、大統領令によってなされてきた。


2.テロとの戦い」は「法外な戦争」である。
   テロとの戦いの戦闘地は、あらゆる場所である。
   =どこでテロが起きるか予測不可能なため、どこも戦闘地であると確定できない
   =戦闘地で適用されるべき法を、テロとの戦いには適用っしなくてよい。

3.ブッシュ政権はテロリストたちを国家ではなく個人とみなす一方で、テロとの戦いを戦争とみなすことで、「どんどんと悪質になっていく権力の下、政権があらゆる国内外の拘束を取り払っていくことを可能」にした。

「あたかも国際法と国内法の裂け目を押し広げるかのように、人間が人間である限りけっして許されることのない拷問を可能にする空間を、つまり法外な空間をあらゆる場所/どこにもない場所に形成してきたのが、(……)9・11事件以降の合衆国を中心とするテロとの戦い、ネオ絶対主義の戦争」(岡野八代)


cf)「国際人権法における拷問禁止規範は、死刑を許す生命権規範とは異なり、あらゆる例外を排除した絶対的な規範である。人間が人間である限りにおいて、拷問は許されない」

                   ⇕

当時、ブッシュは、拷問等を禁じた「ジュネーヴ条約の効力を一時停止する権力を、自分自身が持っていると宣言した。ジュネーヴ条約を停止する権威が、合衆国憲法の下に与えられており、その権威をいつ遂行するかを決定するのは、ブッシュ固有の権利であると。

ブッシュ政権下で毎日のように国際法と国内法への侮蔑的態度が示されたことは、スキャリーによれば、今後に予測不可能なほどの道徳的損害を合衆国に与えた」

ブッシュ政権を担った政治家たちの行為とは、わたしたち人間の生を形作るための根源的なセーフティネットである法の支配に対する、これまでにない攻撃だった」



あらゆる場所が戦闘地となる可能性があり、あらゆるひとがテロリストであり得る状況は、敵地も敵もみえなくしてしまった。そこで「みえない「敵」をみえるかたちにするために、徹底的に支配し、痛めつけるべき人びとが作り出され」なければならず、そのために不可欠な道具が「拷問」である。

人間が人間である限り無条件に禁止された拷問を必要とする対テロ戦争は、こうして人間というカテゴリーに入らない存在を作り出し、人間/人類 humanity というわたしたちの理念に死を宣告するのだ。


さて、ここまで、9・11以降の現実を語る言葉を抜粋してきたけれど、それは、まるで、9・11以前よりももっとずっと前の、済州4・3で繰り広げられた悲劇を物語る言葉であるかのように私には迫ってくる。

このこと、ひきつづき、もう少し考える。