「個々の公害において、大学および大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足尾鉱毒事件をのぞいて皆無であった」
「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」
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1970年から15年間、自主講座として行われていた「公害原論」の最後の頃に私は駒場にいて、自主講座の立看を横目で見つつ、通り過ぎたりしていた。
学生だった当時の私には、まだ水俣病も、公害も、自分自身の置かれている状況に直結するリアルな問題という意識を持てず、(そこまでの心の余裕がなく)、ただただ韓国籍の在日の大学生に対して、就職の機会をほとんど与えないという形で扉を閉ざしている日本社会といかに闘うしか頭の中になく、とても孤独だった。
若かった私は、自分なりに生きるために必死で、若さゆえに愚かでもあったのだと、いまつくづくと思う。