『「日本語」の文学が生まれた場所』黒川創

近代の言文一致体を作り出すために、どれほどの苦労があったことかと、

文学史において、二葉亭四迷やら、山田美妙やらのさまざまなエピソードや、

鴎外や漱石の文体について触れてきたわけであるけれど、

『「日本語」の文学が生まれた場所』の黒川さんの序で、

「言文一致体」創出の常識をいきなり揺さぶられた。ああ、びっくり。

言われてみれば、ほんとにそうよ!と言うほかないこと。

文学史もまた男の文学史だったことに気づかされた瞬間。

 

 注目すべきなのは、森しげ(鴎外の妻)が書いた小説は、最初の「写真」(「スバル」1909年11月号)から、一貫して、明瞭な言文一致体をなしていることである。しげ当人はこうした文体を採ることに、なんの不自由も感じていないようなのだ。これは、彼女自身の文章意識に、最初から、文語体という羈絆が存在していなかったからではないか。芝居にせよ、浄瑠璃にせよ、口語に基盤を置く文化は、日ごろ、彼女たちの暮らしの周囲にあまたあった。  

 それを思うと、言文一致体という「近代」への入口の門前に立ちはだかっていたのは、まずは「漢字文化」という男性文化の教養のありかただった。だからこそ、漱石も鴎外も、そして魯迅も、いかにしてここから我が身を振りほどくかに苦労した。だが、どうやら、女たちのほうは、さっさと話し言葉という「近代」の門内へと、すり抜けてしまっていたのではないかとも感じられる。