2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した ごふつくばりの力芝め だが きさまが憎めない たつた 一かたまりの 青々した草だもの両国の上で、水の色を見よう。 せめてものやすらひに―。 身にしむ水の色だ。 死骸よ。この間、浮き出さずに居れ水死の女の印象 黒くちゞかんだ藤の葉 …

国文学の発生  「てっとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。

と、『国文学の発生』(第三稿) まれびとの意義 において折口は書く。また、その「五 遠処の精霊」において、「沖縄の八重山」にその類例を見る。 「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像…

「心安らかに居られる家郷を離れて、未知の地を久しく旅する者達は、一日の終る頃や夜の時間になると、限りなく魂の不安動揺するのを感じた。それを鎮めるための効果ある方法は、旅をする一行の者が共に静かな心、静かな言葉をもって、旅中の思いや風物を歌い鎮めることであった。

これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。

石牟礼道子『苦海浄土』 第六章とんとん村 より。 足尾への眼差し。

「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…

「治水は造るものにあらず」と正造は言った。そこには渡良瀬川をはじめとする利根川水系全体を歩きたおして体得した「水と自然の思想」がある。日本の近代はこれを否定することからはじまったのだ。

正造の治水行脚。 齢70にして、1910年8月10日から1911年1月30日までに、少なくとも1800キロ以上歩いている。 それは本州縦断の距離に等しい。 これは、明治政府の治水政策の誤りを実証するための行脚だった。この情熱、執念。生きとし生ける命のための。 「…

この小説を書きながら、書き手は、「小説」なるものについて語っている。その小説観はなかなか興味深い。

P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…

足尾銅山の描写はそれなりにすごい。

おぼっちゃま君は周旋の男に連れられて、桐生あたりから歩いて歩いて山に分け入って、ついに足尾の町に入る。 「只一寸眼に附いたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。何時の間にか木が抜けて、空坊主になっ…

語り手の男はおしゃべりな男だ、自分でも扱いきれない自我の声がダダ洩れている男だ。でも、これは40歳の近代青年漱石の声なんだな。

三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になって…

田中正造  治水論/水の思想

1944年8月30日日記より。 「古えの治水は地勢による、恰も山水の画を見る如し。その山間の低地に流水あり。天然の形勢に背かず。もしこれに背く、山水として見るを得ざるなり。治水として見るを得ざるなり。然るに今の治水はこれに反し、恰も条木を以て経の…

足尾銅山略年表

1841年 11月3日 田中正造、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれる。幼名兼三郎。 1877年 古河市兵衛、足尾銅山製錬所操業。 1881年 足尾銅山、鷹の巣直利発見。84年、横間歩大直利発見。 1890年 8月 渡良瀬川大洪水、栃木・群馬両県に鉱毒被…

足尾・松木沢のはげ山と谷中の荒野はともに約3000ヘクタールという広大な面積を持つ。その二つが渡良瀬川によって結ばれている。

日本近代は、 山〜海〜天をめぐって流れて地を潤し、生きとし生けるすべての命に恵みをもたらす「水」の道を断つところからはじまった。 「水」を毒を以て濁らせことからはじまった。 「水」によって生きる命を殺すことからはじまった。日本近代の「富国強兵…