「頬はポッと赤らんで、鼻は大きく、口はにっこりしなくちゃね。こんなのは初めてだ」とキム・スナクハルモニは言った。

昨年末のこと、
植民地期に日本に渡り、九州でドサ回りの大衆芝居の一座に加わり、短期間だが浪曲師として活動し、周囲にみずからの出自を明かすこともなく1953年にこの世を去ったある朝鮮人の男性の故郷を探し出し、訪ねる旅をした。

名もなく異郷で果てた彼の魂を連れ帰ること。そんな心持で。

そのときに、故郷探しを全力で手伝ってくれた韓国の方々のひとりが、大邱の「挺身隊ハルモニと共にする会」の代表 アン・イ・ジョンソンさん。

彼女と「共にする会」は、10年前に、戦時中に石垣島で果てた朝鮮人軍属の魂を故郷に返す旅をしたときに、やはり全力で助けてくださった。

その10年前のとき、元慰安婦の金順岳(キム・スナク)ハルモニと、皆と一緒に夕食をともにしたことがある。歌い、踊る、ハルモニがそこにいるだけで、座がパッとあかるくなるような、そんな人柄。

歌った歌の中には、戦前の日本の流行歌「籠の鳥」があった。
そんな歌が忘れようもなく浸みこんでいる心は、実は園芸療法というトラウマからの回復のための治療を受けていたのだが、その時には私はそのことを知らなかった。


10年後、金順岳ハルモニは既に亡くなっていて、私はハルモニが園芸療法で(押し花で絵を描いて)創りあげた作品の数々を初めて目にした。
生きることが心の痛みを記憶とともに封じ込めることに他ならなかった者が、
絵をとおして、生きることの歓びを少しずつ、本当に少しずつ、取りもどしていく、そのときの呟きのような囁きのような声が静かに流れる絵。


<作品集表紙>
『ハルメ 恋に落ちた』













<金順岳ハルモニ「ささやき」>












1997年からずっと、20年にも及ぶ年月を、「共に生きる」ということ、ただそれだけのことに力を尽くし、心の痛みに苦しみ声を亡くしたハルモニたちに静かに寄り添ってきた大邱市民がいる。
「共に生きる」ということの困難をとことん知り、だからこそ「共に生きる」ためのあらゆる努力をしてきたこの人々を私は心から尊敬する。


モノのように政治利用され、あるい学術的な研究対象や、論文の素材ともされる、慰安婦の、問題を、私自身が考えるとき、大邱の「挺身隊ハルモニと共にする会」の人々のありようは、ぶれない拠り所となる。

今年も、道に迷い、途方に暮れることはあっても、魂の芯のところはぶれずに生きていきたいと思う。


2006年9月28日 金順岳ハルモニ作品

「頬はポッと赤らんで、鼻は大きく、口はにっこり
しなくちゃね。こんなのは初めてだ by キム・スナク」