なぜいま語りなのか、という問いをめぐって。
石牟礼文学は、短歌となると、なぜ、日本的抒情から離れらないのか? と詩人金時鐘。
となると、私は、
近代日本の共同性も日本的抒情というものも土地に根づいた言葉も、身体感覚として全くわからずに、筑豊の地の底に潜り、北九州の海辺の海女を想い、八百比丘尼を追い、海沿いに旅をして、あるいは時をさかのぼり記紀を読んでいると言っていた森崎和江さんを思い起こす。
なぜ、神話? なぜ海女? なぜ八百比丘尼? と10数年前の私は思ったけれども、
それは日本の中に、消されたいくつもの日本の可能性を追いかける旅であったことが、今になってひしひしと分かる、
森崎和江の中には日本的抒情はなかった、とあらためてつくづくと思う。
そして、
日本的抒情とアニミズムが結びついたとき、文学が宗教にも変じうる。そこに孕まれる危うさを思う。