またまた閑話休題  いかがわしい山伏がまっとうな山伏であるということ。

山伏は権威を認めない。ただ山に分け入り、鳥獣虫魚山川草木のすべてにカミを感受し、鳥獣虫魚山川草木と同じ一個の命として、ひれ伏して敬意を表する。

 

無力な一個の命として、同時に命と命がつながりあって大きな命の水脈を生きる存在として、大きな命を織りなしている無数の命の幸いを祈る。

山伏がひれ伏すのは命に対してだけである。

 

そして、なぜ、私の旅の先達である「いかがわしい山伏」(以下、いか山伏)はなぜ「いかがわしい」のか?

いか山伏は、山伏の聖地・大峯にけっして足を踏み入れない。

いか山伏は、出羽三山に試しに行って、そこで皆がひれ伏す偉い山伏に出会って、偉い山伏がみなが自分にひれ伏すのを当然のように受け入れているのを見て、「もう二度とここに来る必要はない」ということがわかったという。だから、出羽三山にも二度と足を踏み入れない。

いか山伏は、おのれが暮らす地にある「山」を日々歩く。そこを「俺の山」と呼ぶ。補日々、「俺の山」に登っては祈る。「俺の山」があれば、ほかの山にあえて分け入る必要はない。

いか山伏は権威を退ける、山だけが、生けるもの死せるもの、目に見えるもの見えないもの、大きなものも、小さきもの、かそけきものも、すべての命の気配に満ち満ちている山だけが、つまりはカミだけが山伏にとって、ひれ伏す対象だからである。

なので、それとは異なるちっぽけな人間社会の権威にひれ伏すものに対して、いか山伏は怒る。

いか山伏は、「怒れる山伏」でもあるのである。

 

さて、いか山伏は、五来重先生を尊敬しているのであるが、その五来先生が次のようなことを書いている。

 

全国の山伏は大峯入峯をはたさなければ一人前とみとめられず、領主も保護せず信者もつかなかった時代が長かった。大峯入峯しない山伏は田舎山伏と軽侮された……(中略)

 

大峯修験道はその南北の端にそれぞれ独立して成立した熊野修験と吉野修験が、十世紀ごろ連繋したものである。(中略)ただ両者のあいだによこたわる百八十キロの大峯山脈を共通の修行路としただけである。しかしこの連繋ができると熊野側を胎蔵界とし、吉野側を金剛界とする両部不二の密教理論で、その同一性を主張するようになった。(中略)曼荼羅をもち出して、こけおどしの理論らしきものを立てたのである。それを従来は何か高遠な密教教理が修験道にあるようにかんがえられていたが、山岳修行の実際や信仰の呪術性を表現するのに密教用語を借りたり、密教的に解釈をしたまでである。

 

ここまでも十分に、いか山伏にとっては「いかにも、いかにも」とうなずくところであるのだが、さらに重要なのは、五来先生の以下の言葉だ。

 

しかし、大峯の修行路というものは、もとはそれぞれ独立した信仰の山だったのを、吉野・熊野の山伏がつないだものである。すなわち点をつないで線にしたのであって、それぞれの峯には信者圏とこれをまもる山伏集団があった。たとえば山上ケ嶽は洞川(後鬼)の山伏集団によってまもられ、黒滝川、丹生川、秋野川筋の信仰圏をもっていた。大普賢岳は笙の窪とともに吉野川上流の川上村や北山川上流の天ヶ瀬などを信仰圏にした。弥山と八経岳は天川筋を信仰圏とし、坪内に山伏集団があった。釈迦岳と深仙宿(中台八葉)は上北山筋を信仰圏とし、前鬼の山伏集団がこれをまもったことなどがわかって来ている。こうした独立した山岳信仰は、その麓に生活する人々の神奈備信仰として成立するものであったが、これを吉野と熊野の大修験集団が吸収して修行路が形成されると、その信仰が変質してしまった。

 

権威にのまれてはならぬ。その権威がたとえ山伏世界の権威であっても。

これが、いか山伏の信ずるところであり、それは五来先生の解き明かす歴史の教訓でもあるのだ。

 

カミの坐す偉大な山が一つあるのではない、それぞれの土地に生きる、それぞれの人々にとってのカミ宿る山があるのである。

この世の無数の山は、それぞれに偉大なのである。それぞれに世界の中心なのである。無数の命がそれぞれにかけがえがないように。

 

というわけで、

いか山伏は今の棲み処の神奈備である生駒山に日々手を合わせる、

生駒山は、かつて、山伏(修験者)たちが盛んに分け入り、修行をした山であったのだが、廃仏毀釈でまずはやられ、さらに近代化の過程で山を貫いたトンネル、高速道路建設が、生駒を生駒たらしめていた水脈を断ち切った。

行場の滝は枯れ、カミを訪ねて水脈をさかのぼるお沢駆けの沢も枯れた。

水なくして命があろうか? カミがあろうか?

 

だが、生駒山は、いか山伏にとって「俺の山」である。

 

いか山伏は、今の棲み処に暮らすようになって、もうすぐ一年となる。

この一年ほどの間、すでに山中の行者たちの姿も消え、道も途絶えた生駒山に、鉈を手に分け入り、草木の茂る山中のかすかな道の跡をたどり、ぶよに刺されながら藪をこぎ、修行の道をよみがえらせながら、山の奥へ奥へと進んでいき、ある日、枯滝の上にひとり孤独に立つ不動明王を発見したのである。

不動明王はいか山伏に、「よく来た」と言った。

いか山伏は、不動明王に、「私がここに水を引きます、私があなたをお祀りします」と言った。

それから、いか山伏は、何度も不動明王のもとに通い、行基上人のように土木工事をした、(ここの部分、やや誇張)、ちょろちょろ流れる山中の沢から滝へと水を引き、おのれの修行場とした。

いか山伏曰く、「マイ不動明王!」

マイ不動明王からさらに上へ上へと道を開き、マイ修行路も完成した。途中、岩がごろごろ転がる小さな沢を上る、

お沢駆けの道もある、プチ本格派だ。

 

二〇二〇年五月二十日午後、私はいか山伏の切り開いた生駒山修行路に初めて足を踏み入れた。

 

修行路の入口は、小倉山教弘寺。無住の寺だ。ご本尊は如意輪観音

 

 

 

本堂裏には不動明王が立つ。ここの滝も枯れている。

 

境内には役行者がいる。

 

この寺の本堂の向かって右手の道を、寺の背後の山へと分け入っていくのである。

今はだれも歩かぬ道、いか山伏がよみがえらせた修行路だ。

 

途中、沢がある、足元が心もとない岩場だ、この場所は水が流れていない。

 

ちょろちょろと水の流れるところも歩いた。鳥が鳴いていた。風が吹いていた。

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山の中を木の枝に叩かれ、石に足を取られ、羽虫に襲われ、いろいろな毛虫に出会いながら進んでいって、ついに「マイ不動明王」にたどり着く。いか山伏が水路を掃除する。小さな滝の水が落ちてくる。いか山伏、祈る。

 

待っていたぞと、不動明王

 

 

 

水が流れる、風が吹く、命がさざめく、祈る、祈る、

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さらに山に分け入ってゆく。この世のすべてのものが災厄に襲われぬよう、牛頭天王に祈る。「山 牛頭」の文字は、岩に呼ばれて、いか山伏が刻んだ。

 

 

さらに山に分け入り、阿弥陀仏に祈る。阿弥陀仏真言も、岩に呼ばれていか山伏が刻んだ。

 

 

さらに山に分け入る。大日如来に祈る。大日如来真言も、いか山伏が岩に呼ばれて刻んだ。

 

もうすぐ山頂に出る。椿の花が咲いていた。たくさん土の上に落ちていた。椿もまた、ただそこにあるだけで、南無阿弥陀仏

この先の山頂には遊園地がある。

 

 

山上遊園地を抜けたところにある八大龍王を祀った寺から、大阪側を眺めやった。

右手に六甲山が見える。海が見える。すぐ下が河内。

 

 

ふたたび、山に分け入り、奈良側へと下ってゆく。

今は廃寺の鬼取山鶴林寺を経由して降りていくことになる。

鶴林寺は江戸時代に山の中腹から、ふもとに降りた。中腹にあるのが廃寺となった元・鶴林寺。)

 

 

 

 

 

境内にあった薬師如来。「弐万人回向大菩提」とある。「安政六年」とある。

その奥には墓がある。荒れている。墓のほうには行くな、といか山伏に言われた。

このあと、やはり、少し荒んだ感のある山道を下って、生駒の奈良側・鬼取地区に出る。

 

 

生駒山奈良側から矢田丘陵を眺めた。

手前が竜田川の流れる谷間。

矢田丘陵の向こう側が、登美の小河・富雄川の流れる谷間。

矢田丘陵を長い脛「長髄(ナガスネ)」と呼んだのも、その形を見れば、腑に落ちる。

この山に、この丘陵に、それぞれを神奈備とする山伏がいて、山に伏して祈った日々がかつて確かにあったのだ。

 

今日、私といか山伏は、わが神奈備に分け入り、伏して、すべての命の幸いを祈ってきたのだった。

そして、コロナという疫病に乗じて世を乱す者たちが消え去ることも。小さなマスクの厄病神の退散も。

 

 

 

 

 

 

閑話休題/今日はお勉強。 緊急事態宣言が解かれた奈良で、ようやく予約していた本を図書館から借りてきた。

図書館もずっと休館で、大変困っていたのだった。

予約していたのは、『近畿霊山と修験道』(五來重編 名著出版

他に予約している者もいないというのに、コロナのせいで1カ月近く待たされた。

 

既得権益層の経済活動は最大限守るが、本一冊も自由に借りれぬ状態を良しとする社会の貧しさ。この間、図書館の閉鎖で、この社会ではどれだけ知的活動が停滞したことだろうか。コロナに乗じた「華氏451」状態をふと想像した。コロナに乗じた火事場泥棒、火付け泥棒が堂々と社会の中枢でふんぞり返っている国だからね、ここは。

 

 

さて、『近畿霊山と修験道』の話だ。

 

五来先生はまずは総説で「大和」の「神奈備」について語る。

「独立した山岳信仰は、その麓に生活する人々の神奈備信仰として成立するものであった」のであり、「山岳信仰の発生を、麓の民の祖霊のとどまる神奈備の御室とする説からいえば、吉野金峯山そのものが、吉野川中流の国栖、菜摘、宮滝の神奈備であり、愛染や喜佐谷や石蔵や鳥栖の修験集団がまもったことはあきらかであろう」と。

 そして、「神奈備信仰の代表的なものは大和の三輪山であるが、これは山麓の三輪氏(大神氏)の祖霊のとどまる山であった」のであり、「この神奈備の御室をまもったのは神宮寺(大神寺、三輪寺、大御輪寺)の修験であり、平等寺の山伏であった」

 

五来先生によれば、大和三山もまた神奈備であったが、そこでは御室を守る宗教者が修験化しなかっただけだという。

 

「大和平野周辺には、二上山生駒山信貴山、松尾山、菩提山、内山などに修験信仰があったことはいろいろの点からあきらかである」

 

そして、私にとって重要なのは、次の記述だ。

 

以上のように大和は低い山の神奈備が多く、これをまもる修験が寺をたてて山麓に住んだので、鎌倉時代の当山派三十六山といわれるものは、大部分が大和に集中していた。これを『踏雲録事」で見ると、

 

 和州金剛山葛城山) 同安倍(安倍寺) 同三輪(三輪山大御輪寺) 同菩提山(正暦寺) 同鳴川(生駒山鳴川千光寺) 同桃尾(龍福寺) 同信貴(信貴山朝護孫子寺) 山城伏見、和州高天(葛城山高天寺) 同茅原(吉祥草寺) 同松尾(松尾寺) 矢田(金剛山寺) 和州霊山寺(鳥見霊山寺 和州法隆寺、同中の川(中川寺成身院) 同西小田原(浄瑠璃寺) 江州飯道寺(岩本坊、梅本坊) 勢州世儀寺、紀州高野(行人方) 紀州根来寺西、同根来寺東、同粉河寺、和州超昇寺泉州槇尾(槇尾山施福寺) 泉州神尾(神於寺) 同高蔵(高倉寺) 同和田(不詳) 同中川牛滝(牛滝山大威徳寺) 摂州丹生寺(丹生山) 城州海重山(海住山寺) 和州多武峰妙楽寺) 同吉野桜本(桜本坊) 同内山(永久寺) 同初瀬(豊山長谷寺 

 

<矢田金剛山寺 ― 鳥見霊山寺 ― 法隆寺> このラインはかつての登美の小河、現在の富雄川の水脈に沿った「十一面観音」ライン。(白洲正子『十一面観音巡礼』による)

 

三輪山大御輪寺 ― 豊山長谷寺> は、東大寺を結び目として、南は伊勢・熊野、北は若狭とつながる水脈、ここもまた「十一面観音」ライン。(安藤礼二『列島祝祭論』による)

 

更に「大和三輪山山岳信仰」の章にこうある。

 

江戸時代には正大先達は十二箇院に減少し、大和は八箇院になった。すなわち鳥見霊山寺吉野桜本坊・松尾寺中福寿院・内山永久寺・菩提山正暦寺三輪山平等寺・宝宥山高天山・正暦寺中宝蔵院であった。

 

鳥見霊山寺前にも書いたが、十一面観音を訪ねる旅をしていた白洲正子によって、あまりに世俗的だと忌避された寺だ。

この寺に湯屋(熊野)川が流れ、役行者が祀られ、不動明王が祀られている滝がある。

 

この寺があるから、富雄川の流れる谷は「湯屋谷(ゆやんたん)」と呼ばれたのではないかと思われる、それくらい富雄一帯は今でも修験の跡がくっきりと、(その分、廃仏毀釈の跡もくっきりと)残る土地だ。

 

三輪山の修験の論文を読もうと思って借りた本であるが、鳥見霊山寺が大和の修験の八大根拠地の一つだったことがわかったのが、大きな収穫だった。

 

そろそろ、登美の小河ライン、矢田の金剛山寺、そして柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺に行かねばなるまい。

ああ、しかし、法隆寺鎌倉時代には大和の修験の根拠地の一つだったとは……。困ったことに、コロナのためにいまは法隆寺は拝観休止中。

 

さて、三輪山の修験のことも忘れてはいけない。今ではすっかり影を潜めている「修験」の話だ。それを知りたくて、図書館から本を借りたのだった。

 

五来重論文によれば、奈良時代前後の神宮寺として文献にのこるのは気比神宮寺、伊勢渡会郡太神宮寺、宇佐八幡比咩神宮寺、日光二荒山神宮寺(中禅寺)、若狭比咩神願寺、鹿島神宮寺、箱根山神宮寺、伊勢渡会神宮寺などが知られる。(中略)ほとんど山岳修行者の開基であることは注意を要する」とある。

 

このような点から見れば、三輪山の大神寺(大御輪寺)をひらいたのも、山岳修行者であったとかんがえてよいであろう。したがって多くの神宮寺がその山の山神の本地仏をまつって、修行者の苦行道場としたように、ここでは十一面観音を本尊とした。(中略)この十一面観音は東大寺二月堂本尊であったり、長谷寺の本尊であったり、白山大御前峰の本地仏であったりするように、山神の本地たるにふさわしい雑密信仰の仏である。しかも長谷観音のように地獄救済をふくむ厄除本尊であるから、三輪山の他界信仰にふさわしい。

 

この十一面観音が、明治の廃仏毀釈を逃れて、三輪山から桜井の聖林寺に移されたのであった。

 

五来重の考えるところによれば、「奈良時代にいまは名のつたわらぬ三輪山の山岳修行者(優婆塞または禅師)が、ここに神宮寺(大神寺)をつくったときは、大物主神の荒魂を十一面観音としてまつったもの」なのだ。

 

前にも書いたことだが、つまりは、神仏分離廃仏毀釈は、山神の本地仏を(もしかしたら山神もまるごと)山から追い払ったというわけだ。神殺し。

 

五来重は、三輪山の修験について、論文をこう締めくくっている。

三輪山は大和の顕著な神奈備信仰から山岳信仰がおこり、大神神社としては大和の一之宮の崇敬をうけながら、これを管理したのは、神宮寺としての大御輪寺と平等寺で、山伏支配の伝統を明治維新までもちつづけた。そのあいだ神社と仏寺を調和させるためには、三輪流神道という両部神道も成立したが、これもまた山岳宗教、あるいは、修験道の所であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水俣・乙女塚 塚守だった故砂田明さんの詩「起ちなはれ」(作・砂田明)の語りを、砂田エミ子さんに聞いていただくために水俣へ。

そもそもは、鳥獣虫魚草木、すべての生者、死者が集う鎮魂と芸能の場として開かれた乙女塚、

1993年に砂田明さんが亡くなってから、だんだんと静まりかえっていった乙女塚、

そこで、いまいちど、芸能祭をしよう、みんなで歌い踊ろう、砂田さんの詩を語ってみよう、2020年5月10日に乙女塚に同じ思いを抱く仲間たちが集まる予定だったのです。

 

しかし、コロナ。

 

砂田明さんの伴侶の砂田エミ子さんは93歳。

集ってくださるであろう水俣病の患者さんたちもウィルスに対する抵抗力はかなり低い。

そこに、万が一、外からコロナを持ち込んでしまったら……、

 

芸能祭は中止になりました。

でも、砂田エミ子さんには、「起ちなはれ」を聞いていただきたい。

そこで、個人的に、ただ砂田エミ子さんを目指して、水俣に行ったのです。

 

2020年5月9日水俣入り、

そして、5月10日午前、相思社にて。祭文語り渡部八太夫が三味線の弾き語りで「起ちなはれ」を語ることに。

演者と砂田エミ子さんのソーシャルディスタンスは20メートル!!

二つの部屋を挟んだ向こうとこちらとで、演者と砂田エミ子さんが向き合っての、

「起ちなはれ」の口演となりました。

 

砂田エミ子さんは、夫君砂田明さんが1993年に亡くなって以来初めて、声に出して語られた「起ちなはれ」を聞いたとのこと。

 

 

 

起ちなはれ 
                     砂田明


もし 人が 今でも 万物の霊長やというのやったら
こんな酷たらしい毒だらけの世の中 ひっくり返さなあきまへん
なにが文明や

蝶やとんぼや蛍や しじみや田螺(たにし)や がんや燕や、
ドジョウやメダカやゲンゴローやイモリや
数も知れん生きもの殺しておいて
首は坐らん目は見えん 耳は聞こえん口きけん 味は分からん手で持てん足で歩けん
― そんな苦しみを水俣の赤ちゃんに押し付けといて
大腸菌かてすめん海にしてしもて
なにが高度成長や なにがハイテク・財テク


貧乏がなんどす え 思い出しなはれ
知らん人には 今どきの若い者(もん)には教えてあげなはれ
お芋の葉ァ食べたかて 生きてきたやおへんか
そのかわりに 青い空にはまぶいお陽(ひぃ)さん
せみしぐれの樹陰(こかげ)は風の涼しうて あの緑と草いきれときれいな川と池と海と・・・・・
そや 昭和二十年敗戦の夏 大阪湾の芦屋の浜で
今はチョコレートみたいな海になってる あの大阪湾で
小っちゃい鯛やら河豚(ふぐ)やら 手でとれた
そんな中で なあ にんげんは ぎょう山(さん)の生類(しょうるい)といっしょに生きておったんやて
教えてあげなはれ ――思い出さんかい


もし あんたが 人やったら
起ちなはれ 戦いなはれ
公害戦争や 原発戦争やでえ
戦争のきらいなわし等のやる戦争や 人間最後の戦争や 正念場や
勝たな あかん 勝ちぬかな
子どものために 孫のために 生きとし 生けるもののために
そうしてこの自分自身のために 一度しかない人生のために

…・・・負けたら?   
負けたら一巻の終りや 生殺しの毒地獄や
数も知れんほどぎょう山 お仲間の生類殺した霊長はんはなあ そのかわりに
ビニールやら 水銀ヘドロやら ダイオキシンやら 核廃棄物やら
数も知れんほどぎょう山のガラクタ残して
この地球から きれいな青い星から
消えてしまうだけのハナシや


 

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富雄川沿い(登美の小河)散歩  添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社&根聖院 メモ


富雄川沿い 県道7号線を富雄駅から大和郡山の方向へと歩いて10分ほど、「添御縣坐神社」と刻まれた石柱のある角を、田畑に囲まれた変電所のあるほうへと左に折れると、前方に鎮守の森が見える。

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神社の参道、境内にあがる階段の手前の坂の左右に祠。どうやら観音像、手に蓮華を持っているところを見ると、聖観音か、登美の小河の水の神「十一面観音」か。

それにしてもきれいに割れている。

首から上と下がぼっきり折れているのが補修されているのだろうか。

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こちらの石像は、聖観音立像(貞享元年)、と「奈良市石造遺物調査報告書・調書編」にある。

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境内に上がっていって由緒書きの立札を見る。主祭神スサノオ。明治以前、ここは牛頭天王社だったはずなのだが、それは書かれていない。

そもそもは、この土地の神である武乳速命が主祭神で、牛頭天王は後から祀られるようになったようであり、江戸期には天王社と呼ばれていたと史料にはある。

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お賽銭箱の向う側、本堂前には鳥居。じゃらんじゃらんと鈴を鳴らすその紐には「家内安全  戊午 50歳 男」といった文字が書かれている。初めて見た。宮司に尋ねてみれば、奈良の神社ではよくあるものという。名前は書かずに、天干地支と歳を書いて、厄払いやさまざまな願い事をするのだと。

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境内には恵比寿神社もある。英霊殿もある。おそらく皇紀2600年に作られたのであろう、遥拝所もある。

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遥拝所は東方を向いて立てられた岩で、皇居を遠く眺めやる望遠鏡のような丸い穴が開いている。同じ登美の小河沿いの杵築神社にあったものと同じだ。

明治以降、神仏分離を経て国家神道に取り込まれた社に残る、皇国の跡。

 

本堂の背後の山には、天之香具山神社、その奥に龍王神社。龍王神社の祠のすぐうしろが龍神池。龍王神社の本社は、龍王山上にある龍王社なのだろうか。

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そして、境内から一段下がったところには鳥見山 真言律宗根聖(こんしょう)院がある。

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さてさて、あらためて宮司に尋ねたのである。

ここはかつては牛頭天王社ではなかったのか?

「はい、明治になるまでは牛頭天王を祀っておりました。本殿前の鳥居の柱に牛頭と刻まれていますよ」

ほお、どれどれ、

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読めない。「牛頭天王」しか読めない。

再び宮司に尋ねる。

「おそらく、奉造建牛頭天王御鳥居ではないでしょうか」

牛頭天王のことまで書かれた由緒書きのようなものはありませんか、とふたたび尋ねると、A4サイズ3つ折りパンフレットをくださった。

その「歴史」の項には、牛頭天王は登場しない。

 

 平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」という禅国の神社総覧によりますと、当神社は、月次祭新嘗祭に朝廷から幣帛を奉られて大社という格式を認められた神社として記されています。従って、延喜年間(901~923)以前すでに存在していたことは確実です。一説に、地元の古老の口伝として、祭神のうち、武乳速之命(たけちはやのみこと)の真の名は、富雄川の中流域一帯を開発し始めた首長である長髄彦(ながすねひこ)とされ、鎮座の起源はおそらく古墳時代まで遡ることができます。その後は、この地域は古代豪族小野氏の子孫が治め、農業の他に林業を業とする杣人の住む集落が点在していました。

 なお、当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつがらす)の地名の起源となったとされる、三穴の凹みのある大石が展示されています。これは古代の唐臼の残片と伝えられており、一つの大石に掘り込まれた「三つからうす」が後に、「みつからす」へと訛化したとされます。

 

このあたりの寺社の由緒はほぼ、長髄彦(そこには長髄彦を討った神武天皇の影がある)、小野氏(ここには聖武天皇の影)、そして鳥見のセットですね。

 

さて、「祈祷とご利益」のところに、「歴史」には登場しない牛頭天王の名を見つけた。こうある。

祭神のうち建速須佐之男命は、かつては疫病退散伝説がある牛頭天王として祀られていて、しかも隣の根聖院の本尊が薬師如来であること、かつてこの地で薬草を栽培していたという伝説などを考え合わせると、健康を祈願する人々の精神的支えとなっていたようです。

 

明治の神仏分離の折に、同じく牛頭天王社からスサノオを祀る社へと替わった「杵築神社」と違って、この添御縣坐神社は実にさりげなく神仏分離の歴史を消している。

明治以前は神宮寺であった「根聖院」のことも、隣の寺と記すだけ。

 

牛頭天王薬師如来は同じ真言。オンコロコロ マトウギ センダンソワカ牛頭天王本地仏薬師如来

 

明治以前は、添御縣坐神社(おそらく地元では牛頭天王社と呼ばれていたはず)と根聖院(実は、真福寺という名だった)は、根聖院のほうが主の、おそらく同じ一つの山<鳥見山(とみさん)>としてここにあった。

 

おそらく明治以前の「鳥見山」の様子であろう板絵が、本堂前の拝殿の壁にかけられていた。

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さあ、ひっそりと神社の下にある根聖院のほうへと降りてみようか。

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これが、神社の「歴史」の項に書かれていた「みつからす」の石だ。

 

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そして、薬師如来がご本尊として祀られている醫王堂。

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醫王堂の中は薄暗く、扉のガラスの部分から中を覗き込んでもご本尊はうっすらとしか見えないのだが、なにやら険しい顔に見える。

 

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寺の境内にちょうどご住職が出て来て、山門の脇で草むしりを始めた。声をかける。

「いま、本堂を覗き込んでみたのです、ご本尊のお顔が随分と険しく見えました。お薬師さんなんですよね?」

 

ご住職曰く、ええ、お薬師さんです。ただだいぶ古くて、金箔がところどころ剥げているので険しく見えたのかもしれません。が、とてもお優しいお顔をしておられますよ。

「ここはすぐ上の神社の神宮寺だったのですか?」

「そうです、ここは明治以前は真福寺と言いました。当時は真言宗でした」

 

ご住職が言うには、今は生駒山真言律宗宝山寺の末寺で、つまりは西大寺の末孫寺になるという。

明治以前は、東寺や御室さん(仁和寺)の末寺だったこともある、明治の廃仏毀釈でいろいろあって、今は宝山の末寺になっている。ということなのだが、なにしろ廃仏毀釈の時に寺の古文書も資料も全部焼かれて残っていないので、寺の由緒についての確かなことが言えないし、推測で由緒を文字にしてしまうと、それが歴史になってしまうから、いいかげんなことはできないのだと住職は言った。

 

廃仏毀釈の歴史を一切語らない由緒書で、実質的には歴史を書き換えている上の神社と、破壊され記録も失われたこの寺の沈黙と、歴史に向き合う対照的な姿勢が実に印象深かった。

とはいえ、歴史に対する勝者の驕り、その一方での敗者のつつましさ、といったものを、いきなりそこに見ようとするのは、私のせっかちな願望だろう。

 

そう、歴史に対して、語られた記憶に対して、物言わぬ声がある。覆い隠され、書き直され、語りなおされた記憶がある。それは時代の流れの流れの中でたびたび起こったことなのだということを忘れまいと私は思う。

忘れるな、歴史はつねに書き換えられる、神すらも置き換えられるのだ、というかすかな声、かすかな傷跡は、歩けば、辺りを見渡せば、そこかしこにあるものだ。

とりわけ、風土の記憶の標(しるし)ともいえる古社や古祠や路傍の石仏石神には。

 

神社参道脇にあった痛ましい傷跡のある聖観音か十一面観音らしき石像も、神社の一の鳥居の外の道路脇に集められている小さな石像群も、廃仏毀釈の跡を残す遺物のようにも思えた。

 

かすかな標、かすかな傷跡、かすかな声を追いかけて、消された記憶に覆いかぶさっている歴史を引きはがして、観る、聴く、そして感じる。いまやっているのはそういう旅。

「不知火曼荼羅」石牟礼道子 (砂田明『海よ母よ子どもらよ』より) 

明後日2020年5月9日  必要で、緊急な、大事なことのために、水俣を訪れる前に、乙女塚の塚守であった故・砂田明さんの本を読んでいる。

 

その本に寄せられている石牟礼道子さんの文章から。

 

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苦海浄土を書きながら、じつは自分で解説をも書いていた。文体論のようなものである。

(中略)

方言を例にとれば、これは民衆の思想が埋蔵されている遺跡なのである。ここにある曼荼羅をもっとも深い伝統の根と見るかどうか。形にして甦らせるには呪縛が必要で、情況論的にいえば戦術は、美学でなければならない。言語における富の発掘という意味あいも考えていた。

 そこには形に添うときの影や、根の思想が自己主張をせずに横たわり、より濃い影となるものや更に深い死へ向うものもいる。いずれ転生転死を夢みて豊饒かつ荘厳である。その者たちに宿りいくらか語った。言葉は退化してゆく時も言霊を伴う。生きようと死のうと働きかけるので恐しい。

 言葉だけでなくモノたちもここでは働きかけを持つ。砂田さんが全部引き連れてゆかれるようにと禱っていることである。

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これもまた空恐ろしい言葉。

確信犯としての『苦海浄土』の文体。

文体の底に潜む言霊。

言葉にはたらきかけられ、モノにはたらきかけられ、

そうして、みずからもまたより濃い影となり、更に深い死に向かうものとなり、転生転死を夢みる言葉を語りだす、その覚悟の潔さ、恐ろしさ。

そうして紡ぎ出された言葉を、現代の勧進・旅芸人の砂田明に託して、全部引き連れてゆけと禱る。

その禱りもまた、恐ろしい。

禱るほうも、禱られるほうも、まことに空恐ろしいなにものかを確かに分かち合っているからだ。

 

 

 

富雄川源流めざして、高山町~傍示~かいがけの道をたどって龍王山へ。  (備忘メモ)

 これは、白洲正子『十一面観音巡礼』から取ってきた地図だ。

 

 

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霊山寺、王龍寺、長弓寺と富雄川沿いの寺を訪ね歩いて、

さて、下流の飛鳥、法隆寺に向かうか、上流の高山、傍示、龍王山に向かうか、

時はコロナ自粛真っ最中、法隆寺は拝観停止、となれば、これはもう山へと向かうしかないだろう。

 

富雄川の源流へと、水の道をさかのぼってゆく。

源流の水の神を祀る龍王山を目指す。

 

 

まずは予備知識。

龍王山とは?

淳和天皇・天長3年(826)、旱日を積み稲苗殆ど枯なんと欲す。人民是を愁訴し国司是を天朝に奏す。天皇直に勅して弘法大師に雨を祈らしむ。大師河内の榜爾嶽(ボウジタケ=龍王山)に登り八大龍王を祭り大雲論請雨経を講ぜらる。龍神感応雨降ること四方数十里、万民斉しく愁歎の眉を開き皆蘇生す。茲に於て、天皇其効を嘉賞し忝も叡旨を賜り、八大龍王に表して八葉蓮華寺を建て、其塔中に八ケ坊を置かる。

 (氷室山蓮華寺の略史(傍示・西方寺蔵))より

 

ここにも弘法大師伝説がある。

富雄川沿いのあちこちで、弘法大師は、龍と出会い、龍神を感得する。

 

 龍王山とは、八大龍王の山であり、もとは榜爾嶽。河内と奈良の境の山であり、榜爾という言葉自体が境を示す言葉であるのだという。それは人の世と人ならぬ世、生と死の境界をでもあるのかもしれない。雨乞いの山である龍王山は、嬰児山とも言うのであり、姥捨てならぬ子棄ての山でもあたのではないかと言う人もいる。


 曾ての寺村・傍示村では、旱天が続くと龍王山頂での雨乞いがなされたが、その時は、必ず各戸一名が参加し、峡崖道を太鼓を叩きながら龍王山へと登り、山頂で火を焚き、全員で雨乞い呪文を唱えながら雨乞い石のまわりを回った、という。
 近年では、大正13年昭和14年に雨乞いがおこなわれた。

(『交野市史』より)

 

 近鉄富雄駅あたりから、川沿いに上流へと車を走らせれば、あっという間に風景は、まずます草萌える田園風景となる、茶筅の町高山までは20分とかからない。 

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龍王山系(龍王山~旗振山~交野山)から落ちてくる水が貯められるくろんど池は江戸時代に作られた溜池だ。コロナ自粛で行き場のない人たちがここには来ていて、スワンボートに乗ったり、釣りをしたり。バスが釣れると若い釣り人が言っていた。

ここまで来ると、龍王山の麓の傍示(ほうじ)の里はもう目と鼻の先。

 

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分かれ道を左に折れて傍示の里へと下りてゆく。細い農道だ。どんどん細くなる。

 

この細道は、今も昔も河内と奈良を結ぶ道なのだ。

そういうことも走る車の中で、あわてて手元のスマホでググって知った。

思い立ったらすぐに動く、動きながら情報を集める、その道の上に立って、おおおと驚く、そんなことの繰り返しだ。

この道は、かつては、京都から熊野・伊勢へと向かう人々がたどった古道のひとつ、<かいがけの道>へとつながる道、そもそもが巡礼の道、修験の道なのだ。

そういうわけで、この道のあちこちに、さまざまな神への「伏拝/遥拝所」がある。

 たとえば、これ。

かつて、ここに、熊野ゆかりの八王子神社があったのだという標識だ。

 

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細い道を抜けたところで、風景が開ける。河内が見える。難波が見える。大阪が見える。淡路島も見える。

なるほど、こちらからあちらを見渡すこの風景を旅の頼りに、人びとは河内へ、大和へと、この道を行きかったのか。

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この風景の見えるあたりの道沿いに天満宮がある。

鳥居はあるが、鳥居の先には小高い山の山肌しかない。行き止まりだ。

鳥居の柱に「天満宮窟前」とある。

鳥居の脇の丘の上にあがる小道をのぼっていくと、磐座が現われる。

祠があるが、磐座自体が神なのだろう。龍神の山の里には、磐座をご神体に雷神。

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天満宮から道を下ってすぐのところに、八葉蓮華寺にあがる小道。 寺というより、小さなお堂。しかし、かつては、龍神山の「八大龍王を表して八葉蓮華寺を建て、其塔中に八ケ坊を置かる」 (氷室山蓮華寺の略史(傍示・西方寺蔵))というような寺だったのだという。

 

八葉蓮華寺の詳しい由来はこうなる。

 天長三年(826)交野、大和の一帯が日照り続きになり植えた苗がほとんど枯れてしまった。
村人達は困り果て、国司に訴えたところ、国司はこの状況を天皇に報告した。

天皇は直ちに弘法大師を呼び、交野地方に雨が降るように祈願する事を命じられた。
弘法大師は、早速傍示が嶽(竜王山)に登って八大竜王を祭り、大雲論晴雨経を読まれた。
すると龍神がこれをお聞きになったのか、四方数十里にわたって黒い雨雲が現れ、まさに竜が雨雲に乗って天に上るような暗さになり雨が降ってきた。
これを見ていた村人達は、よみがえったように喜んだ。

天皇はその効をおほめになり、八大竜王を祭る寺を八葉蓮華寺と号し、その下に八つの坊を建てられた。
その一部「山の坊、栴檀(せんだん)坊、向井坊、西の坊」の地名が残っている。
建暦年中(1211から1213)の僧戦の時、京都清水寺に協力した為延暦寺に敗れ、この時寺は廃絶した。
その後、元享元年(1321)法明上人が交野に御化道(ごけどう)の際、八葉蓮華寺の跡に一小堂を建てられ、旧名の通り八葉蓮華寺とおつけになり、融通念仏宗の道場とされた。 (氷室山蓮華寺略史より)

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さあ、いよいよ龍王山にのぼる。

龍王山に入るには、「かいがけの道」を通ってゆかねばならぬ。 

 

 「かいがけの道」とは――

 

 『かいがけの道』とは、交野市東部・寺地区に鎮座する“住吉神社”から、龍王山麓の尾根道を上り、傍示(ボウジ)の里西端で“傍示の里ハイキングコース”(大和へ続く道ということで“大和道”とも呼ぶ)に合流するまでの約1kmをいう。

 

そう、まずは、この道は、今はハイキングコースなのだ。
 

『かいがけ』は、“峡崖”と書く。
 峡
(カイ・キョウ、陜が本字)とは“急な崖に挟まれた谷”あるいは“山間の盆地”を意味し、当地では、龍王山系の西から南にかけての急斜面・断崖層の下にできた山道を指す。
 
 古くは、京都から淀川または東高野道を経由して交野に入り、峡崖の急坂を上り傍示
(ボウジ)の里を過ぎて大和へ入り、生駒・葛城・五条と南下して、十津川から紀州・熊野に至る重要な古道で、その一部である峡崖道には、社寺・石仏・遠方にある社寺の遙拝所(伏拝:フシオガミ)などが点在する。

 峡崖の道の東端にあたる『傍示』は、河内と大和の国境に当たる地で、今も大阪・奈良両府県それぞれに傍示との地名・集落がある。


 傍示とは、古く“牓示”と書いた。“牓”
(ボウ)は“たてふだ”・“掲示”などを意味する語で、そこから牓示は、国境や領地といった境界の目印・標示として立てられた木杭または立石・立ち木など指し、ひいては境界を意味するようになったという。 

戦国の世には、この河内と大和を結ぶ道をもののふどもが馬を走らせたという。

 

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鶯が鳴いている、シジュウカラが鳴いている、藤が咲いている、つつじも咲いている。 

 

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かいがけの古道をゆけば、道の脇を流れるせせらぎの音がする。

この道をゆく者は、はるか昔から、山から湧きいずるこの生まれたばかりの水の音を聴いて旅をしたのだろう。

水の音は命の導きの音。

けっして登山などは好きではない私が山を訪ねてあるくのは、ひとえにこの水音の誘いゆえなのだ。

しかし、今は、この道は、巡礼路ではなく、ハイキングコースだ。

あちらとこちらをつなぐこの道に、あちらとこちらの境を思って歩く者も、石にカミを感じる者も、そうは多くないだろう。

もはや、熊野に思いを馳せ、伊勢を思って歩く者もそうはいないだろう。

山伏も聖も姿を消してしまっただろう。

 

それでも水は流れている。

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金毘羅さんの伏拝がある。石の上にてトカゲが遥拝。

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 かいがけの道に入って、5分も歩かぬうちに、龍王山の登り口にたどりつく。

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「ここより嬰児山(みどりごやま)龍王社三丁」とある。

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山に入ってゆく、いたるところにつつじが咲いている。

墓だろうか、何かの碑だろうか、「南無阿弥陀仏」「一心欲見佛」とある。「不自惜身命」とある。山中の祈り。

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竹が生い茂る。あちこちにタケノコがむくむくと生えている。いのししがタケノコを掘り返して食った跡がある。ケモノの匂いがするような気がする。

 

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15分ほども歩いて登れば、ほら、大阪が見える。もうすぐ頂上だ。

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八大龍王の磐座の手前の広場のような場所に、朽ち果てた祠がひとつ。

誰かの祈りの跡。ここに祀られたカミの行方、祈りの行方が気になる。

カミは人に忘れられてしまうと、消えてなくなるものなのだろうか。

今までどれだけのカミが忘れられて消し去られてきたのだろうか、

カミの記憶は、そのカミに祈り、そのカミへの祈りで結ばれていた人々の記憶もろとも消えていったのだろうか。

それは、つまり、あるカミとともにあった、ある一つの世界の消失なのでではないか。

いま、ここにある、私たちの世界とは別の。

 

今まで、無数の「ある一つの世界」が消えて、忘れられていったのではないか。

 

そうか、

気になるのは、消し去られた世界、消し去られた人々、消し去られた記憶なのだ。

 

消されたカミの名前が気になるように、消された人々の名前も気になるのだ。

無数のカミ、無数の人、無数の名前。

 

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山頂に到着。八大龍王。磐座の上に小さな祠。

龍王のはずなんだけど、どなたですか、お稲荷さんの狐を祠に入れたのは。

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早速、 山伏が、錫杖を振って鳴らして、「祓いたまえ、浄めたまえ」

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磐座は花崗岩。この花崗岩には海の匂いがするぞーー、ここは大昔は海だったのだな、と山伏。

そうか、この山は、水の中から姿を現したのか。 

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かつてはお堂があったのだろうか、瓦の破片が散らばっている。 

放っておかれて忘れられてしまっている間にお堂が朽ち果てたのか、

それとも、あるとき、不意に破壊されたのか、

その「あるとき」とは、「あのとき」ではないのか?

ここは神仏習合の山であったはずだから。

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山伏祈る。岩に祈る。

 

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椿も祈る。つつじも祈る。草木悉皆成仏。私も祈る。

あちらとこちらの境の山で、

人々をずたずたに断ち切ってゆくコロナの世のすべての命に、水が降り注ぎ、水が流れて、めぐって、むすんで、潤んで、脈々とつなががっていきますよう、

祈る。

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山を下りて、かいがけの道に戻れば、龍王山の鳥居のすぐわきには、かつて地蔵堂があったという石仏たちの広場がある。

通称、かいがけ地蔵。

石段をのぼって正面に地蔵、右手に役行者、左手前に三界万霊碑、左手奥に不動明王。点々と小さな地蔵、碑石。

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かつてあった地蔵堂の建物はなく、ここも龍王山の山頂と同様、瓦の破片が散らばっている。

 

三界万霊碑の横には大きな山桃の古木があって、その下にも、小さな石仏。

輪郭も風化して、かなり古いものなのだろう。

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不動明王は紅蓮の炎を背負っている。素朴な立ち姿。

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虚空に向かい、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、苔むす碑石。江戸時代のものだ。

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この役行者は、台座には文化十年とある。地蔵さんのように赤い前掛け。

きっといたはずの「前鬼」「後鬼」は、ない。

祠は平成の再建。

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なんの案内も説明もないのだが、ここは昔、熊野詣の人々が休憩するところで、茶屋もあったとか、尼僧がいたとか、弘法大師堂があったとか、そんな記述をどこかで見たが、今はまだ定かなところはわからない。

ただ、なにか、破壊のあとの静けさのような、粉砕された祈りのような、その祈りの破片の一つ一つを拾い集めて、いまいちどつないでいかなくてはならないような、そんな気配がしたのだった。

 

降りてきたばかりの龍王山を見上げる。

龍王山の「嬰児山(みどりごやま)という別名について、あらためて考えた。

かつて、かいがけの道が修験の道であり、巡礼の道であり、こちらとあちらを結ぶ道であり、その道にあるこの山が神仏習合の山だったとするならば、、「嬰児山」という名に現代の多くの人が連想する「子棄て」「間引き」といった 悲しみのイメージはそもそもが見当違いなのではないか。

 

龍王山にのぼることは、死と再生の道をゆくことだったのではないか、

龍王山から降りてきたときには、ひとりの嬰児となっている、新たな生がはじまる、

だからこその「嬰児山」だったのではないか。

 

水に浄められて生まれ変わる、山。

 

その龍王山で最後の雨乞いが行われたのは昭和14年という。

もう百年近く雨乞いの祭祀が行われていないという八大龍王へと、よみがえりの水、結びの水をこの世に降らしてくださいと、

祈る。

かいがけの道に静かに流れるせせらぎの音に水を澄ます。

鶯が鳴く、シジュウカラが鳴く、山伏の錫杖の音がする。

タンポポが咲いている。

ここのタンポポは、ニッポンタンポポだ、ほら西洋タンポポみたいにガクが反り返ってないでしょう。

黄色いタンポポに手をあてて、山伏が言った。

 

 

富雄川源流から、今度は一転、富雄駅あたりへと川を下ってゆこうと思う。

川沿いを歩いて気づいたこと、ひとつ、

長弓寺境内の伊弉諾神社がそうであったように、明治以前、牛頭天王社だった社が川沿いに点々とあるのだ。

 

十一面観音の水脈である「登美の小河/富雄川」は、どうやら牛頭天王の流れでもあるらしい。

 

十一面観音にしても、牛頭天王にしても、疫病を祓う強力なカミ。

コロナの世の祈りの巡礼は続く。

 

 

 

 

閑話休題その3。   いつもの道でも、何度も歩いて初めてわかることがある。 

2020年5月1日。メーデーだ。だが、世はSTAY HOME。

STAYと言われて、従順にHOMEにいるのは犬だけだと思っていたが、そうでもないらしい。

いや、もしかしたら「犬だけ」で正しいのかもしれない。思った以上にこの世には尻尾も毛もない「犬」が多かったということなのかもしれない。(ワン!)

 

 

いつも自転車を走らせている富雄川沿い、

家から、湯屋谷(ゆやんたん)を過ぎて、もう少し行けば真言宗真弓山長弓寺というところに、

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑」の案内がある。

富雄川沿いに東京から越してきて、もうすぐ10ヵ月。

この案内板はちっとも目に入らないというか、神武天皇などどうでもよかったのだった。

(山伏もそう言っていた)

 

ところが、富雄川の水脈をたどりながら「十一面観音」巡りを始めたとたんに、「登美の小河」富雄川の、「登美/鳥見/鵄」問題に出会い、皇国の「金鵄」の故地としての富雄を知ることになってしまった。

すると、いきなり「神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑」が思い出される。

いつも通り過ぎていたところへと、わざわざ訪ねてゆく。

今日はそういう日になった。

 

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案内標識のあるところに、ひょいと入って、小高い丘へと登ってゆく小道の途中に、実に立派な石碑が立っている。

 

 

 

 

神武天皇戊午年年十二月皇軍ヲ率ヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ

時二金鵄ノ瑞を得サセ給ヒシ二因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト號セリ聖蹟ハ此ノ地方ナルベシ 

 

この神武天皇聖蹟は、皇紀2600年に、記紀に記された神武天皇の足跡に関わりのあるさまざまな土地に建てられたものの一つだという。

軍国の時代の神武天皇ブームの中の、一現象。

それに、長弓寺も王龍寺ものまれていったということになろうか。

 

 

ここからさらに竹林の間の小道をのぼってゆく。

 

 

 

ここに祀られているのは、「天忍穂耳命」。

 

生駒市デジタルミュージアムによると、

上町にある神社の一つで、祭神は天忍穂耳命あめのおしほみみのみことです。沿革は不明です。 
9月中旬に上町の氏子によって御供ごく上げがおこなわれます。

こういう場合、きっと、この土地の神の上に、軍国の時代にこの記紀の神が張りつけられたのだろうと、もう反射的に思う。

 

とりあえず、 天忍穂耳命は稲穂の神、農業神だ。

同時に、「まさしく立派に私は勝った、勝利の敏速な霊力のある、高天の原直系の、威圧的な、稲穂の神霊」という意味をその名は持つという。

軍国の時代の、草深い奈良の邑の社に祀るには、ぴったりの神のようにも思われる。

が、推測の域を出る話ではない。

 

 

神武天皇聖蹟をあとに家のほうへと富雄川沿いに戻ってゆく、その途中、いつも見ているはずの路傍の地蔵が、今日はなんだか地蔵に見えない、

近づく、地蔵なのに、頭になにかボコボコついている。

ハッと気がついた。

赤い前掛けをしているからてっきり地蔵と思い込んでいたが、これは、富雄川沿いの寺に必ず祀られている「十一面観音」ではないか?

失礼、と言いつつ、山伏が赤い前掛けを上にあげてみる。

十一面観音だ! と言う。

確かに。手にしるしの花瓶を持っている。

この路傍の十一面観音は、いつ、だれがどのようにして、ここに祀ったのだろうか。

ずいぶんと古いことは間違いない。

ここは、富雄川の王龍寺側のとおりなので、王龍寺と関係があるのだろうか。

 

神武天皇などどうでもよい。

(山伏は神武天皇聖蹟顕彰碑から天忍穂耳神社の間の竹林で立派なタケノコを見つけて掘り出して食料調達、山伏的にはそっちのほうがよほど大事と言うのだった。)

 

そして、タケノコよりも、登美の小河(富雄川)の水脈とともにある十一面観音。

今日は、この路傍の十一面観音と出会い直すための散歩だった。

いつもの道でも、何度も歩いて初めてわかることがある。

本当に知るべきことは、何度も歩かないと、姿を見せてはくれない。