無法な暴力がますます跋扈する2016年夏。今日は7月31日。都知事選投票日。痛みに耐えかねる心で、レヴィナスを読み返す。


メシアとは私のことである

と言ってしまったら、確かに気狂いと言われても仕方なかろう。
でも、救済者として天から降臨するメシアを斥けるレヴィナスの意志は、心に響く。
外部からの救済の断念。
断念。
この言葉は絶望的な響きをもっているな。
でも、ここから考えるしかない。
ここから生きるしかない。



現世の理不尽無意味さを、彼岸のユートピアにおける救済で意味づける、
そうして、天から降ってくるメシアを待ち望む受動性、服従性よりは、
他者の苦しみの身代わりとしての私、という意味においての受動性、そして主体性のありように、私を共感する。


苦しむ私、
理不尽に苦しみ、理不尽に死んでいった他者の身代わりである私、
他者の身代わりであることによってこそ「私」でありうる私
それこそが「メシア」なのだと、レヴィナス
それは宗教や思想やなにものかの力の呪縛を振りほどこうとする「私」がいるだろう。
その私はかぎりなく苦しい私でもあるだろう。
その苦しみこそが、存在の意味であるという…。


「それ(メシア)は、統治の絶対的な内面性です。<自我>が自己自身に命令する内面性以上に根本的な内面性が存在するでしょうか。この上ない非=異邦性――それは自己性です。メシアとは、もはや外部から命じることのない王です。(中略)メシア、それは<私>であり、<私であること>、それはメシアであることです。
 メシアとは苦しむ義人であり、他者たちの苦しみを背負っていることは先ほど見ました。「私」と語る存在以外に、結局誰が他者たちの苦しみを背負うというのでしょうか。(中略)
 メシアニズム、よってそれは<歴史>を停止する人間の到来を確信することではありません。それは、万人の苦しみを引き受けるわたしの力です」
村上靖彦レヴィナス 壊れものとしての人間』より重引)


メシアとしての私、身代わりとしての私、
それは孤独な狂気の私でもある。
この狂気は、あまりに正気のゆえの狂気のようでもある。


「歴史的にすべての宗教は信者の共同体を形成してきた。しかしながらレヴィナスによって立てられた「宗教」はそのような共同体を構成することはできない。というのは、すべての人間が知らず知らずにすでにそこに巻き込まれているからであり、とりわけ信仰が構成要素でないだけに、信者と非信者を区別する基準がないからである。それゆえ『存在の彼方へ』が提案するのは信者を持たない真の普遍宗教である。と同時にこれは社会において実現することのない宗教である。たしかに宗教であるが、それを信じることはできないし、共同体を形成することは論理的に禁じられている」(『レヴィナス 壊れものとしての人間』P181より)