サハリンの日本語文学 李恢成 /「日本語」の文学が生まれた場所

 

 

植民地支配という近代日本の負債を通して、サハリン(樺太)の日本語文学は、非日本人の作家・李恢成へと引きつがれた。

 

黒川創は書く。なるほど、確かにそうかもしれない。

 

1981年にサハリンを訪れた李恢成は、現地で会った師範大学で経済学を教える朝鮮族の教授が、東北弁をベースにした日本語を話したと書いている。

 

それを受けて、黒川創はさらにこう書く。

いまはもうない場所の言葉、いまではほかに誰も使っていない言葉を、サハリンで日本国籍からソ連籍になった朝鮮民族の一人が、使っている、李恢成の文学の日本語は、こうした言葉と歴史の堆積を、背景に持つ。

 

この逸話に、南ロシアのロストフで2004年に出会ったサハリン韓人夫婦の日本語を私は思い出した。彼らの話す日本語は、たとえて言うなら、夫は笠智衆、妻は原節子。小津映画に登場するような日本語の使い手だった。

それを聞いて、ああ、昭和の日本語……という感慨を抱いたのだった。

彼らは子どもの頃、サハリンの国民学校に通っていた少国民だった。

両親は彼らのようには日本語を話せなかったという。

この夫婦は、文部省唱歌「ふるさと」を歌い、彼らにとっての故郷サハリン、故郷日本を懐かしんだ。

 

この夫婦と出会ったことがきっかけとなって、私もサハリンを旅した。

残留韓人を訪ねた、残留日本人も訪ねた、炭鉱も訪ねた、ウィルタも訪ねた。

基本的に国民学校で日本語を学んだ世代の日本語は、南ロシアで出会った夫婦と変わらないものだった。もちろん、李恢成が出会ったような東北弁ベースの人々もいた。それはやはり東北ルーツの人々の暮らしの言葉として伝承されてきたもの。

思い返せば、サハリンの日本語世界も、極私的なものから、公的なものまで、さまざまな階層があったのだということに、気づかされる。

そして、教育によって日本語を身につけた植民地の民の日本語は、ほぼその時代の標準語なのだということ、根なしの日本語なのだということも、忘れずにおきたい。