黄晳暎『客人(ソン二ム)』(岩波書店) メモ  済州島4・3と、朝鮮戦争の渦中の北朝鮮・信川の虐殺をひそかな線。

物語の舞台は、現在の北朝鮮 黄海道信川郡 信川邑

そして隣り合う郡として、また一帯の地域として載寧郡も登場する。

黄海道のこの辺りは、平安道と合わせて「西北地方」と呼ばれていた。

 

ふと思い出したのは、金素月「南勿里原(ナムリボル)の唄」(1927)。

この詩を私は『韓国の流民詩』(尹永川 実践文学社)で読んだ。

 

載寧は、東洋拓殖会社の最初の標的になった肥沃な地域と言われている。

東拓の下、農地の地主経営が強化され、多くの土地なき農民が満州へと流れていった、その悲哀を素月は歌っている。

 

東拓の駐在員、そしてその下で働く朝鮮人の管理人、御用小作人(日本人地主の農地でで働く小作人)がおり、場合によっては7~8割を超える高率の小作料が課せられ、小作権が剥奪され、地主と小作人の間にいた 중답주(中畓主:地主から土地を借り、さらに他の小作人に土地を貸す中間支配層のような存在)も排除された。

そのようなことをとおして、「日帝侵略期の韓国の歴史の縮小版」とまで言われるようになる状況に置かれていたのが「黄海道載寧」だという。

 

1927年に起こされた激しい小作争議の結果、朝鮮人の農民が所有していた良質の土地が日本人所有となり、その土地は「小日本」と呼ばれるようになったとも『韓国の流民詩』には書かれている。

 

その一方で黄海道(と平安道を加えて西北地方)一帯は、近代とともに朝鮮にやって来たプロテスタントの種が最初にまかれたところであり、キリスト教信仰が日帝支配への抵抗の拠り所となった歴史を持つ地域でもあったという。

 

解放後、この地域はキリスト教(親米)とマルクス主義の対立・葛藤の場ともなる。

 

そして、朝鮮戦争当時、米軍が北上してきて、載寧も巻込んだ形で北朝鮮の支配の及ばぬ空白地帯が信川に現れた時、植民地期にもそれなりの暮らしを形作っていたがために人民委員会による処分や処刑の対象とされたキリスト信仰を持つ富裕層が、かつてのこの地域の最底辺の者たち(いわゆる無産階級)であり、人民委員会の中核を担っていた者たちやその家族の大量虐殺へと、アカ狩りへと、先を争って駆り立てられていく。(この虐殺に落伍したら、裏切者とされて自分がやられるかもしれないという恐怖とともに)。

 

北朝鮮では公式的には米軍によって行われたとされている、この凄まじく陰惨で酷い信川の虐殺の記憶の「真実」が、『客人」では語られる。

 

「客人」とは、そもそも、天然痘(=西からやってくる病)をもたらす神を指して人々が言う言葉として、この作品の中では登場する。そして、その意味合いは、作家によって、人々を憎悪と虐殺に駆り立てる対立の枠組みを形作った「マルクス主義」と「キリスト教」(どちらも西からやってきた)へと広げられる。

 

しかし、なぜに、

キリスト教を信仰する青年たちが狂ったように人を殺していったのか?

 

小さな共同体の中で、それぞれにマルクス主義キリスト教を奉じる者たちが、反共か否か、アカか否かをめぐって(実のところは、マルクス主義でもキリスト教でもない理不尽としか言いようのない激しい憎悪によって)殺しあった末の和解は、いかにして為されるのか?

 

作家は、黄海道のシャーマンによる伝統的な巫祭「客人巫祭(ソン二ムクッ)」の形式に則って、12の「場=マダン」を次々開いていくようにして、死者と生者の入り混じる語りの場を立ち上げる。

互いに殺し殺されした死者たちはそれぞれに殺戮の記憶を語りだす。

語り終えた死者たちは恩讐を超えて、ついに、共に、天へとのぼってゆく。

 

 

さてさて、想い起こされるのは、済州島で繰り広げられたすさまじく無惨なアカ狩りである4・3事件(1948~)においても、反共青年団として悪名高かった集団が「西北青年団」であったこと。

彼ら、西北青年団も、おそらくその多くはクリスチャンだったのだ。そして、彼らも信川のキリスト教青年団のように、アカ狩りの名のもとで島民を無惨に虐殺したのだった。

その背景には、植民地当時の黄海道のクリスチャンたちの抗日精神、解放後の抗日から親米・反共への流れがあった。

クリスチャンたちは小地主でもあったから、北に成立した社会主義政権によって宗教を否定されるだけでなく、土地や財産、さらには命を奪われ、憎しみをともなう反共へと追い込まれゆく。

 

『客人』という小説では、背景にあるだけで、文字にして語られていることではないが、

済州島の4・3事件と、朝鮮戦争中の北朝鮮での信川の虐殺は、一本の糸でつながっているということ。

そこには、アメリカーキリスト教ー親米という線があったということ。

そんなことにも気づかされて、愕然とさせられた。

 

そして、4・3事件の犠牲者の鎮魂について語る詩人金時鐘が、土地の神によってその魂は鎮められねばならぬと言ったように、信川の虐殺を語る黄晳暎もまた土俗の巫祭による鎮魂を試みたということ。

おそらくそれは偶然の一致ではなく、殺し合った者たちの和解の道は近代の論理を超えたところにしかない、ということを、詩人あるいは文学者たちは気づいているのだということなのだろう。

 

『客人』では、主人公柳ヨセフの一族の大おばあが巫女のような役割を果たして、物語が過去に向かって動き出すそのときに、ヨセフの記憶のなかでこんなことを語る。

 

 

人間はだな、祖先を祀らなくてはまともな人間としての道理を守ることはでけん。他国の神を祀ったばかりに国がガタガタになり、滅んでしまったんだよ。

 大おばあ様は湧き水を張る平鉢や、お膳やそして香を焚く香炉を木綿の風呂敷に包んだ。そして石を積み重ねた道端の塔の前に立っている村の守り神、木彫りのチャンスンを指差した。

 末っ子や、ここにお辞儀しなさい。

 えーっ、これいったい何なの。

 峨眉山の法師様じゃないの。子どもたちがよくかかる客人(天然痘の神)をやっつけてくださる方さ、だからよく拝むと病にかからず長生きできるのよ。

 

(中略)

 

疫病神とはだいたいがもともと西の方からやってきた病だそうだ。西の方の国の野蛮人の病というから西洋神を信じている国から来たに違いないじゃないか。あたしはおまえの祖父の上の二人の息子を疫病神にとられたから、西洋神に腹が立たないわけがあるかい? 頭を下げて拝めるかい? 人間は自分の根本を知らにゃ幸せにはなれん。

(『客人』P36~ )

 

 

黄晳暎『客地』(岩波書店) メモ02  「森浦へ行く道」

 

 

永達は、どこへ行こうか、と考えながらちょっと立ち止まった。

 

これが冒頭の一文。

 

流れ者永達は、ワケあって次の工事場を探して旅に出たところ。

旅の道連れになった鄭は故郷の「森浦」へと帰るところ。十数年ぶりの故郷に。

永達は鄭とともに「森浦」へと行くことにする。

 

「おれたちは森浦に行くんだ……。そこはおれの故郷でね」

 

森浦へと向かう汽車の駅までの短い道中、二人の流れ者にとって「森浦」は、「故郷」の代名詞へと意味を変えてゆく。

 

流れ者たちは「故郷」へと向かっている。

 

しかし、その「森浦」は、もはや失われた「故郷」、

ベトナム戦争参戦の見返りのドル資金と、日本からの借款とで、開発独裁「漢江の奇跡」のただなかの1970年代、朴正煕の開発独裁の下、韓国社会が「故郷」を失っていった時代の風景がここには描かれている。

 

駅の待合室で行きあった老人と鄭さんの会話。

「故郷はどこかね?」

「森浦ってご存知ですか?」

「知っとるとも。息子がそこでブルドーザーの運転をしてるんだ……」

「森浦でですか? 森浦は工事場になるようなところじゃないでしょう。せいぜい魚を獲ったり、じゃがいもでも植えたりするところですよ」

「ハハ―! 何年ぶりに帰りなさる?」

「十年ぶりです」

老人は、むりもないとうなずいた。

(中略)

「村は昔のままですか?」

「昔のまま? あっちも工事、こっちも工事で、市までたっているからのう」

 

流れ者永達が森浦の工事場で仕事ができることを喜ぶ一方で、鄭は逆に森浦へと向かう足が重くなる。もはやそこは「故郷」ではないから。

 

彼は心の拠り所をたった今、失ってしまったのだった。いつの間にか鄭さんは永達と同じ立場になってしまった。

 

◆作家ファン・ソギョン曰く

「「森浦へ行く道」は、六〇年代の経済開発五か年計画が推進されていく中で根こぎされた浮浪労働者、あるいは離農民が都市周辺に集まり始めたころのことを描写したものです。」

 

一九七〇年代初め、韓国社会が経済発展の過程で「故郷」を失っていく(あるいは、破壊してゆく)、その「はじまり」の光景を描いた作家ファン・ソギョンは、

今や、それから半世紀近くが過ぎた韓国の、「おわり」の光景を見つめている。

誰ひとり「故郷」を持たない社会の到来。それは「森浦へ行く道」の彼方に広がる風景、あの頃はかすかな寂しさ、かすかな予感でしかなかった社会の到来だったのだろう。

 

 

 

瀬尾夏美『あわいゆくころ』 抜き書き

いわゆる「復興」ではない「はじまり」を語り合うために。

「はじまり」の「場」を開くものとしての「芸能」を感じるために。

 

 

「死んだ人はもうあまり喋らなかったが、時おり歌をうたっていたね」(「みぎわの箱庭」より)

  

2012年12月21日

まちづくりとは、

死者の声に耳を澄ますことなのではないかな。

生き残った人たちは、亡くなった人たちと

一緒に生きているのだと感じる。

まず死者の声を聞くこと。

それを怠ってはいけないと感じました。

 

 2013年8月28日

死者との関係を大切にし続けること。

土着すること、

その土地に暮らし続けることの、

根っこのことのように思う。

 

 2013年12月2日

詩や歌がとても必要なのではないか。

  

2014年2月1日

なくなった景色を見たり、

死んだ人と手を繋いだり、未来と会話したり、

そういう不可能のようなことを、

本気で試みたいと思う。とても正気で。

 

 (これは狂うことですね。狂わなくてはなりませんね)

 

 2014年7月27日

通行止めで誰もいない市街地は、

静かすぎてとても奇妙だった。

ふと、歌が聞こえた気がした。

この土地に染み付いた歌。

 

 2014年12月23日

工事車両が行き交って、

まちの痕跡も山の稜線も

まっすぐに変わってしまった。

ふと、神聖さはどこに行ってしまったのか、

と思う。

 

 2015年1月25日

草木がざわざわと揺れて、

中から生きものたちの声がする。

 

 2015年2月20日

私ではない誰かのことを、想いたい。

 

 

2015年3月19日

生きているということは、

誰かの記憶装置になるということ、そして

蓄えたものを伝える媒体になるということ。

人はお互いにそういう存在なんだと思う。

 

  ――陸前高田市高田森の前地区にあった「五本松」という巨石をめぐって

 2015年5月26日

土曜日、地域のシンボルだった

大きな石のお別れ会

津波で流された部落の中心にあったその石が、

ついに復興工事で埋まる、

津波のあとは地域の人たちが

土地の弔いのためにと、

周りにたくさんの花を植えていた。

花は半年前にすべて抜かれ、

復興工事を待っていた。

 

石の周りを提灯で囲む。

地域の人たちが輪を作って盆踊りをする。

音楽が流れだすとみんな無言で踊りはじめる。

その手つき顔つきが妙に色っぽくて、

この人たちはいま、ここにいない人たちと

ともにいるのだなあと思った。

土地が、あちらとこちらを結ぶ時間。

 

 2015年8月5日

こころはどこにあるのか。

こころは、風景の中にあったのではないか。

 

 (こころは、「場」に宿るものなのではないか。記憶もまた。)

 

2016年2月7日

物語ることが弔いに似ているということ。

 

 (物語るということは祈りにも似ているということ)

 

 2016年2月27日

復興という物語に紛れ込んでやってくる、

大きな力のようなものを、あいまいにしない。

 

2016年5月4日

もうすぐ埋まる巨石の上で、

真新しい神楽を踊る人、雨音と太鼓が響く。

 

 2017年12月5日

語りを聞くということは、同時に、

その隣にあるはずの

語られなかったこと、

どうしても語れなかったことを想う、

ということだ。

 

 2017年3月11日

津波から六年目の日に、

誰かの身体を通して、

その出来事を体験した人たちの

語りや風景が、

別の場所に現れる。

継承する、語り伝えるためのレッスン。

 

 (誰かの声を通して、誰かの踊りを通して、誰かの歌を通して、

   誰かの舞を通して、……、

   大切な物語を受け取り、語り伝える「場」が開かれる。たとえば、芸能の力。)

 

 2017年5月2日

災厄からの立ち上がりの技術。

その後ろには”いまはないもの”を

偲ぶ気持ちやそのための所作がある。

たとえば花を手向けるための

祭壇を作ること。

繰り返される語りから物語を生むこと。

こういった技術の成り立ちこそが、

アートの根源のようにも思う。

 

 (そして芸能の根源。)

 

 七年目 あと語り

 ”新しいまち”に形なきものたちの居場所はあるのだろうか

 

 (そのための「場」を開く声があり、言葉があり、歌があり、

    語りがあるのだろう。そうして「場」を開く者たちがいるのだろう) 

黄晳暎『客地』(岩波書店) メモ  友の血

「黄晳暎は語る 韓国現代史と文学  (聞き手)和田春樹」

 

「四・一九と友人の血」より

 

 私ととても親しかった安鐘吉君、彼は兄が『東亜日報』の記者であったためか、兄の影響を強く受けており、私と政治的な話をよくしていたんですが、その彼とともにソウル市庁前のデモに加わりました。そのとき、政府系のソウル新聞社が焼かれ、カービン銃の無差別射撃が行われました。そして私のすぐ側で安君がこめかみを撃ち抜かれたんですね。血が吹き出したので、私は傷を帽子でふさぎ、かついで一町ほど行きました。私も血だらけになりました。そこで車に乗せてソウル大学病院に連れて行ったんですが、行ってみると死体がたくさんありました。安君もそこで血の気がなくなり、青ざめた顔で死んでいったんです。

 

(中略)

 

今でも四・一九というと、傷口を帽子でふさいで私の全身を濡らした、そのときの友の血を思い出します。

 

これを読むと、李承晩政権下のソウルで反政府活動をしていて、ひとりふたりと消されていった作家金石範の友人たちの話をいやでも思い出す。

そして、死せる友チャン・ヨンソクからの血と涙で書かれたかのような手紙が、金石範をして長大なる『火山島』を書かしめ、金石範は90代になる今も泣きながら友のことを語り、友に対する返信のようにして小説を書きつづけることを思わざるをえない……。

 

 

ホ・ヨンソン詩集『海女たち』の翻訳をめぐって   ~もっとも低くて、もっとも高くて、もっとも遠いところの声~

ホ・ヨンソン詩集『海女たち』の翻訳をめぐって  

~もっとも低くて、もっとも高くて、もっとも遠いところの声~

 

海女たち (ホ・ヨンソン著  訳:姜信子・趙倫子)

 

 <1>歌に呼ばれて、めぐりめぐった旅のすえの済州島

 もう20年あまりも前になります。日本とか韓国とか、自分を縛る国やら民族やらからとにかく遠ざかりたくて、無闇な旅を私は始めたのでした。遠い旅に出るとき、その旅のはじまりは、いつも、彼方から聞こえてくる歌。旅の行方も歌がおのずと教えてくれました。そうしてたどりつくのは、いつも、抗いがたい大きな力によって、生まれた土地を追われたり、親から子へと受け継がれてきた言葉を捨てさせられたり、名前を変えさせられたり、記憶を封じられたり、ついには命までも取られてしまうような過酷な「生」を生き抜いている人びとの場所なのです。それは、「国家」や「民族」という大きな物語の涯にある荒野のような場所と言ってもよいかもしれません。

 

2000年代初めに中央アジアで出会った高麗人(コリョサラム)は、1937年秋に、スターリンによって、ロシア極東から着の身着のままで追放されてきた朝鮮の民の末裔でした。私は、日本に戻ると、唯一そういう話の出来る叔父を訪ねて、高麗人の追放の生について語りました。すると、叔父にこう言われたんです。

「彼らの悲しみ、苦しみと、僕の悲しみ、苦しみとどちらが大きいだろうか? それは比べようがあるだろうか?」と。

叔父の苦しみ、悲しみ? いったい何の話だろうか……?

 

私はこのときはじめて、叔父が済州島からの密航者であり、「アカ狩り」という名で国家権力によって済州島の民に対して繰り広げられた無差別虐殺の現場にいた人であったことを知りました。彼がそれまで語ることのなかった記憶をはじめて聞いたのです。これが、私と済州島の出会いです。大きな物語の「涯の島」としての済州島との。

 

済州島に初めて渡ったのは2010年のことでした。そのとき、封じられた島の記憶の道案内人として現れたのが、詩人ホ・ヨンソンでした。

 

済州島にたどりつくまでの長い旅の道のり。思い出すのは、台湾で出会った先住民プユマの音楽家イサオから教えてもらった言葉。

「僕らが生きる場所は、この世の一番低いところ(地の底/たとえば炭坑、金坑)、一番高いところ(山地)、一番遠いところ(たとえば遠洋漁業での過酷な労働)」

つまり、この世の中心からもっとも離れた場所です。もっとも沈黙を強いられる場所です。そして、どこよりも歌が人々の思いや記憶のひそかな器となる場所です。歌は、ここに語られぬ記憶があると教えます。それに触れてしまったなら、世界そのものの見え方が変わってしまうような記憶です。

 

その意味では、涯の地でうたわれる歌とは、それを聞く者にとっては、新しい世界への扉を開く歌ともなりましょう。世界の涯の歌を聴いてしまった者が、ついにみずからの言葉で歌いだすとき、そこに「はじまりの歌」としての詩が生まれるのでしょう。そのようにして人は詩人になるのでしょう。

 

ホ・ヨンソンは、そのような詩人として私の前に現れました。

2018年、ホ・ヨンソンから手渡された詩集『海女たち』は、もっとも深い水底からもたらされた「はじまりの歌」でした。

 

<2>海女は水で詩を書く  

言うまでもなく、海女たちは、実によく歌うのです。

 

水底の命がけの労働を、海を越えて旅をした出稼ぎのことを、植民地の支配者である日本人による不当で過酷な扱いを、アカ狩りで消えた男たちのことを……。

植民地期に作られ、不当な搾取への抗議して立ち上がった海女闘争の折りに盛んに歌われた「海女抗日歌」は、それをわかりやすく伝える歌の一例でしょう。ただ、これは歌ったのは海女であっても、その歌詞は海女たちを指導した夜学の青年教師によるものです。海女が水で書いた詩ではない。

 

海女たちはこうやって水で詩を書くのだ、こうして水の言葉で歌ってきたのだということを教えてくれたのは、『海女たち』に登場する海女ヤン・グムニョです。海女たちの世界を日本語でなかなか歌えずにいた私たち(姜信子と趙倫子)翻訳者をヤン・グムニョのもとへと、詩人が連れていってくれたのです。

 

私たちはヤン・グムニョが経験した無惨なアカ狩り(4・3事件)の記憶を聴き、

「イオドサナ」(https://youtu.be/LOHD9_7GR0s)を聴き、

「回心曲」(https://youtu.be/e1zC_scAtdA)を聴きました。

 

むかしむかしの済州島海女のみなさまへ

冬至 年の終わり 冷たい風に雪もこんこん舞い落ちるときに、

今ではゴムの潜水服もありますが、昔は素肌を真っ赤にして海に入りました

身は切られ、手足はかじかみました

一生の間、こどものために、あの海で苦労なさってお亡くなりになった

多くの母たち、多くの先達の方々が、生前の恨を、苦しみに満ちた胸を大きく開いて放って、

八万四千の極楽の門を開いて、極楽往生、昇天なさいますよう

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 (回心曲)

 

 

手を合わせて、ヤン・グムニョは歌う。海女たちの歌は、名もなき者たちへの水の底の祈りなのだ、水の声で歌われる祈りだのだということを、ヤン・グムニョは歌うことそれ自体で、その声で、如実に私たちに語りかけていました。

 

まさに、海女たちは水で歌う、水で詩を書く。

 

ところで、詩集『海女たち』においてとても重要な言葉の一つである、この「海女たちは水で詩を書く」という言葉。実は、これ、私の誤訳だったのです。「해녀들은 물에서 시를 쓴다 」と詩人は書いていました。これは「海女たちは水の中で詩を書く」と訳すべきです。これを何を思ったのか、私は何の迷いもなく「海女たちは水で詩を書く」と訳して、誤訳に気づいたのはすでに編集者に訳稿を渡してしまったあとのことでした。

 

詩人にこの誤訳のことを話しました。すると、なんと詩人は、「ああ、それでいいわ。それがいいわ」と即座に答えた。水に生きる海女が、水で詩を書く、それは海女の生き方そのものではないかと。

 

それは、やはり済州島出身の在日の詩人で、私にホ・ヨンソンを紹介した金時鐘の詩に対する姿勢を想い起こさせもしました。存在自体が詩である、そのような人々がいるのだと、詩は生きることそのものとして現れ出るのだと語っていた金時鐘とホ・ヨンソンの間のひそやかな共鳴を感じたのでした。

 

「해녀들은 물에서 시를 쓴다」のみならず、さまざまな意訳、誤訳を私は詩人に差し出し、やりとりをし、例えば、「喰らった力で愛を産んだのか」という詩では、韓国語ではたった一行の簡潔な言葉が、日本語では滔々と語る二行に生まれ変わるというようなことも起きています。ここで行われていたのは、翻訳をベースにした、ほとんど創作に近い、詩人訳者の共同作業でもありました。

 

 

 <3>詩人は歌い、翻訳者もまた歌う

 韓国語で、時には済州の言葉も入り混じった詩を詩人が歌っている。それを今度は訳者が日本語で歌う。目指したのは、そういう翻訳です。

 

ホ・ヨンソンは海女たちの「水の詩」をみずからの声に写しとって、歌っています。彼女の詩は声で読む詩です。耳で読む詩です。ホ・ヨンソン自身が朗読する「海女クォン・ヨン」を聴いてみましょうか。

https://youtu.be/mP0FUpXbc4c

 

訳者のひとりである趙倫子が북(太鼓)を叩き、パンソリのソリクン(唱者)である安聖民が歌う「海女 パク・オンナン」。これも聴いてみましょうか。(https://youtu.be/ckrsa1oDeUE

 

こんなふうに、『海女たち』を日本語でも歌ってみよう。祈りを込めて歌おう。それが訳者としての願いでした。

 

同時に、いわゆる抒情詩のように美しくは歌わない、済州の海から生まれた歌を日本的抒情に置き替えたりはしない、日本的なリズムに収めたりはしない、それでも日本語で見事に歌ってみせよう、というのが、翻訳の方針です。

 

それは、日本語を酷使し、日本語を破壊することをとおして、日本的抒情を突き抜け、新たな日本語詩の領域を開いた金時鐘の志のひそかな継承をめざすものでもありました。

 

「眠れる波まで打て! ――海女の舟歌」。 私は、この詩の底に、金時鐘が「うた またひとつ」(『猪飼野詩集』所収)で歌った「打ってやる」の声を聴き取りました。それは、大阪・猪飼野(生野)や神戸・長田の朝鮮人集住地区のサンダル工場で、サンダルのヒール底を打ち続ける朝鮮人の声です。

https://youtu.be/0LXOGCYG5IA 金時鐘版)

 

 

 打ってやる

 打ってやる

 打ってやる

 忙しいだけが 

 おまんまの あてさ

(中略)

 打って 運んで

 積みあげて

 家じゅうかかって 生きていく。

 日本じゅうの ヒール底

 叩いて 打って

 めしにするのだ。

 

さらに、この金時鐘の「打ってやる」という声の底には、ハインリッヒ・ハイネの詩「シュレージェンの職工」(1847)の「織ってやる」という声が響いています。過酷な労働を強いられていた織工たちの蜂起をうたった詩です。

 

 くらい眼に 涙もみせず

 機にすわって 歯をくいしばる

 ドイツよ おまえの経帷子を織ってやる

 三重の呪いを織りこんで

    織ってやる 織ってやる

 

     (https://youtu.be/RrlpZD25eEY

 

 

織ってやる、打ってやる、時を越えて響きあう声を、済州の波を越えてゆく海女たちの声にも聴きとって、「眠れる波まで打て」と歌ったホ・ヨンソンの声に、さらに日本語で「打って打って打ち捨てろ」と畳みかけて歌う声を響き合わせる。

 

つまりは、これは詩集『海女たち』は、海女たちの歌であると同時に、時空を超えて時空を超えて、「もっとも低くて、もっとも高くて、もっとも遠いところの声」が幾重にも響き合い、つながりあう「場」であるということ。翻訳とは、そのような「場」を開くことでもあるのだということを、いまこうして語るうちに、私はあらためてつくづくと気づいたのでした。

 

最後に、李政美さん歌う日本語版「眠れる波まで打て! 海女の舟歌」を!

https://youtu.be/TSmEospxWKw) 

 

『海女たち』について (新泉社 HP)

https://www.shinsensha.com/books/3307/

 

語りの宇宙 特別編/旅する異人(まれびと)たちの秋の大芸能祭    ~ おわりを越えて めぐる命の はじまりのうた ~

2020年10月11日(日)は、大阪・カフェ周で、
 
 【語りの宇宙 特別編】
  旅する異人(まれびと)たちの秋の大芸能祭    
~ おわりを越えて めぐる命の はじまりのうた ~ 
 
 
◆ところで、異人(まれびと)って?
それは、世界の涯から、世界に新たなはじまりをもたらす放浪の神々、
あるいは、この世を旅する遊芸の民。
かつて、かれらが歌や語りや踊りや舞をたずさえて到来するたびに、世界は生まれ変わり、命は新たな風を吹き込まれ、人々は新たなはじまりを生きなおしていたのです。
東日本大震災、まやかしの復興、復興とセットで語られる壮大なる嘘、オリンピック。
そして、命をないがしろにする者たちのあらゆる嘘とともにあるコロナのこの世。
わたしたち、思い出さなくちゃね、命が命として生きるということを、
語って、歌って、踊って、生きなおさなくちゃね。
 
      というわけで、秋の大芸能祭です。
 

◆到来する異人は、


陸前高田の復興の時間の中に身を置いて、生と死、おわりとはじまり、日常と非日常のあわいで言葉と映像を紡いできた、

瀬尾夏美さん(アーティスト)&小森はるかさん(映像作家)

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 そして、韓国の農楽の世界に飛び込み、今は伊勢太神楽を追いかける、みずから芸能する研究者、神野知恵さん

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かれらを迎えて開く、はじまりの「場」に、どうぞみなさん、遊びにきてください。

遊べば、きっと、世界も命も生まれかわる!

 
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【第一部】 異人到来/マレビトキタル    
15:00~16:30
参加費 2000円
 
◆異人その1
仙台から、瀬尾夏美&小森はるか
 
映像作品「あたらしい地面/地底のうたを聴く」
               (21分35秒)
 
陸前高田市森の前地区にある五本松という大きな石。昔から一里塚のような存在だったその巨石は、子どもたちの遊び場となり人々に親しまれていた。大津波でも流されずに残ったが、かさ上げ工事によって埋まることが決まる。最後に何かがしたいと、まちの人々は石を囲んで盆踊りをした。お別れを前に聞き取った石にまつわる記憶と、移り変わる石のある風景を記録した作品。
 
                
◆異人その2 神野知恵
映像作品「悪魔を払う伊勢大神楽」(20分43分)
伊勢大神楽(いせだいかぐら)とは、三重県桑名市太夫を本拠地とし、西日本各地で獅子舞による厄祓いの巡行を行う芸能者のことである。現在も5組の社中が年間を通じて旅を続けており、たとえば森本忠太夫組は、正月は滋賀、春は京都、夏は岡山、晩夏は瀬戸内海の島々を巡り、秋は丹波篠山を廻って一年を締めくくる。この映像は、森本組の瀬戸内海での様子を中心に、伊勢大神楽と地域の人々との関わり合いを記録した作品である。
 
◆異人×異人 語りのマダン/広場
来て、観て、出会って、語らって、何が飛び出すかわからぬ、対話の時間
 つまりは、「おしゃべりし放題」ということですね、と異人その2は言いました。
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【第二部】異人饗宴/マレビトトアソブ
17:00~ 
参加費 4000円 乾杯ドリンク&軽食付
 
<一緒に遊ぶ人たち>
풍물놀이 (風物)  神野知恵 withピヨピヨ団
瀬尾夏美 
音曲パラダイスショー ケセランぱさらん
旅するカタリ(祭文語り八太夫&姜信子)
安聖民(パンソリ唱者)&趙倫子(鼓手)
ブルースバンド ケセランはちらん、
その他

  
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『ショウコの微笑』(チェ・ウニョン CUON)  メモ

神保町でこの作家を見かけたことがある。

柔らかで穏やかで物静かな気配をまとった若い女性だった。

 

そんな気配の奥底に、

すべての生きづらい人々に寄り添うのだという、

すべての哀しみを分かち合うのだという、

希望の宿る場所は誰も知らないこの世の片隅なのだという、

自分自身の生きづらさを自分自身を否定する刃としてはならないのだという、

あんなにも強く揺るがぬ骨太な意思が秘められていたのだということを、

短編集『ショウコの微笑』を読んで痛切に感じた。

 

表題作「ショウコの微笑」は、ぎこちない小説だ。

合わせ鏡のようにして語られる、韓国人の語り手とその日本の友ショウコという「生きづらい私たち」と、そっと私たちに寄り添う人々の物語。
語り手が微笑するショウコに感じる違和感、それが意味することは、そう一筋縄で解釈できるものではない……。ここには語り手自身の自分への違和感もあるように思われる。

 

思うに、この小説のぎこちなさは、作家の企みが物語の中に溶け込み切れずに、時折その溶け切れなかった欠片がぎざぎざと目に刺さるからかもしれない。

同時に、その一方で、この小説の企みは、短編集に収められたその他の小説に見事にさまざまに変奏されて実現されている。

 

そこに現れるさりげなくも繊細な表現、そこに宿る眼差しのありかに、ハッとする。

 

たとえば、「オンニ、私の小さな、スネオンニ」では、戦争で孤児になったスネオンニ(語り手にとっては「おばさん」)と、スネオンニを働き手として迎えた家の娘だった語り手の母の、少女時代から晩年に至る、その関係の切なくもどうしようもない変遷と和解が、語られているのだが、

まだ少女の頃の母が、スネオンニが唯一母に語った幼い頃の故郷の思い出(死にゆく愛犬コムの話)を聞く場面で、このような描写が現れる。

コムの話を聞いている時、母はコムになったつもりでおばさんを見ていた。コム、ご飯食べなさい、そう言って泣きじゃくる姿を。コムの目を通して見ると、おばさんはこの世で誰よりも大切な人だった。母はその後も時々、死んだ犬の気持ちになっておばさんを見た。自らの意思とは関係なく全てを失い、それでもなお失うものが残っていたおばさんのことを。

 母はおばさんがいとおしかった。

 

 

あるいは、「ミカエラ」のこんな一節。

女は隣に座ってうとうとしている老女を見た。この老女はこれまで幾度、愛する人を失ってきたのだろう。女は年老いた人を見るたびに尊敬の念を抱いた。長く生きるということは、愛する人たちを見送った後も長い間、残されるということだから。そういうことを何度経験してもまた立ち上がり、ご飯を食べ、一人で歩んで行かねばならないということだから。

 

 

このような眼差しで語られる世界は、実のところはこの世に生きる者たちの多くが身を置く世界であり、自身のことを声高に語らぬ者たちの世界であり、陰に陽に口を塞がれて本当はそこにあるのに見えない領域に押しやられている世界でもある。

なにより、この世界を知ることなく、分かち合うことなくして、人の世の希望の絶望も語ることなどできはしない、そういう世界だ。

 

弱き者に寄り添うこと、それが憐れみや施しにならぬためには、弱き者を産み出す社会的、政治的構造があるのだという意識に裏打ちされた深い洞察も必要だろう。

それは、政治的になることを恐れて日本の小説がどんどん失っていった姿勢のようにも思う。

 

作家はあとがきにこう書いている。

「自分が自分であるという理由だけで自らを蔑み嫌う人たちの立場で、社会や人間を見つめる作家になりたい。その過程で私もまた、恐れることなく、ありのままの自分になれたらいいと思う」

 

今は、自分が自分であるという理由だけで自らを蔑み嫌い、そんな自分を安心させてくれる大きなものに「我を忘れてすがりつけ」という囁きに人々が踊らされる時代だ。そんな時代だからこそ、『ショウコの微笑』の作家チェ・ウニョンの小さいけれど揺るぎない声で語りだされる物語は、胸に沁みる。

それは、この時代を生き抜かねばならない私たちにとっては、直視したくはない私たちの現在と、眼差すべき明日を、小さな言葉で指し示す物語なのだとも思う。

 

最後に、大事なことをもう一つ。書き忘れるところだった。

チェ・ウニョンの作品には、忘れてはならない死者たちが宿っている。

言葉なく逝った死者たちの声がそこにはある。