歌集『月陰山(タルムサン)』(1942)尹徳祚のこと

歌集『月陰山』。

これは、植民地において最初に朝鮮人によって編まれた歌集。

尹徳祚は、2024年刊の『密航のち洗濯 ときどき作家』が基にした日記の主である尹紫遠と同一人物。

 

戦後、生きる術を求めて日本に密航してきた尹紫遠は歌を詠むことはなかった。

ひたすら小説を書こうとした。

植民地期末期、まだ解放の日が訪れることも、解放が悪夢になることも知らなかった尹徳祚は、こう書いている。

私は、ひそかに短歌の世界に自分の生命の絶対地を求めようとした。これによって、打ちひしがれたような自分の魂に安住の地を与えようとした。狭量で、疑い深く、然も何ものかにおびえて、常におどおどしている自分の魂の済度を見出そうとした。

 

しらじらと明けゆく海よ遠かすむ果ての山は月陰山か

 

世をさけて月陰山のふもとなる院里のはづれに住める兄かも

 

客死せしその友の父と語れどもつひに客死のことには触れず

 

深渓にわく水見れば人の世の興亡治乱も忘るべきなり

 

逝くものは逝かせてしまひて静かにも夏を迎ふるふるさとの江

 

■月陰 という山の名に漂う世の果ての気配。ふるさと朝鮮のイメージ。

ここでの静かな諦念は、密航後の尹徳祚にはもうないようにも感ぜられる。

 

(日本は)それでも今の朝鮮よりマシかも知れない。乞食とドロ棒ばかりがふえてゆく朝鮮。民衆の生活とはエンもゆかりも無い政治。(……)彼(李承晩)が支配するかぎり、南朝鮮に自由や希望や発展なんかあるもんか。考えてみれば李承晩ばかりでじゃない。きのうまで<日本人>になり切っていた奴らが、今ではアメ公になろうと目を皿のようにしている。そうして、そういう奴らが社会の重要な地位にのさばり返っていることも事実だ。だが、しかしだ。だからと言ってこのおれは日本へ密航していいのだろうか。(尹紫遠『密航者の群れ』より)

 

諦念に安住することすらできない、混乱の、宙づりの世界から、いったいどこに密航しようというのか。

日本への密航は、完結することない密航のようでもあり、そこで尹は歌を詠まない。

そんなことをつらつらと考える。

あらためて、金時鐘の短歌の抒情批判を想い起こしつつ。

 

尹徳祚の歌が、たとえ日本的抒情とは異なるとしても、もはやあてのない密航を生きる尹徳祚あらため尹紫遠には、歌うべき抒情を見つけかねたようにも思える。

 

 

 

 

 

2024年2月18日 パレスチナ連帯散歩 by 百年芸能祭関西実行委員会

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

でも、家でひとりでできることをするだけでは、もう耐えられない、

耐えられずに、街に出て、もう耐えられないぞと、誰かれなく囁きかける、

そんな〝パレスチナ連帯/植民地主義にもジェノサイドにもサヨナラ/ふざけるな/殺すな゛ぶらぶら散歩をすることにしました。

 

類友である百年芸能祭関西実行委員会の友人たちも、

やはり耐えかねて、一緒にぶらぶら散歩をすることになりました。

 

一緒にぶらぶらしますが、ルールはないし、みんな気ままで、つるまない。

 

どこをぶらぶらしようか?

天神橋筋6丁目商店街(略して天六。ここはすごく長い)がいい。

駅前から好き好きに店を覗いたり、立ち止まったり、立ち話ししたり、

最終的に扇町公園を集合地としよう。

公園は親子連れが多いはず、フラッシュモブして音楽奏でて歌って、さささーっと消えようか。

くらいの決めごとをして、歩きだしたのでした。

めざすは、日常の中にゆるゆる分け入る連帯行動、です。
われらが昨年から立ち上げた百年芸能祭の流儀そのままの振舞です。

 

さて、私は奈良のわが家を出たところから、連帯ぶらぶらを開始。

 

 

 

2月18日午前11時 

天神筋橋六丁目駅前に集まったのは8名。
さあ、散歩が始まります

 

パレスチナ連帯散歩 全編】

これ20分と長いから、この映像から抜いた「扇町公園編」と「マレビトと共に祈る編」も「全編映像」の下に貼りつけます。

 

駅前から歩きだして、五匹のネコさんたちにいきなり捕まったり、

ネパールの服やら雑貨屋やら仏具やら楽器やらが置いてある店を覗いたり、

BIG ISSUEの販売員のおっちゃんと語らったりするうちに、

一同、三々五々、扇町公園にたどりつくわけです。

 

扇町公園では、連帯散歩の連れの一人、はぐれ山伏八太夫の法螺貝の音を合図に、

親子連れのみなさんに向けての、メドレーのはじまりはじまり!

youtu.be

変な人たちが、変なことをしているなぁ、みたいな空気も確かにありました。

いや、いいんですよ、もともとこの世のはずれで生きているようなものですから、私も、散歩仲間も。

今日は妙な人たちが、ガザだとか、パレスチナだとか書かれたゼッケンみたいのを胸や背中に貼りつけて、♪♪アンアンアンパンマン♪♪と叫んでたとか、どんな形であれ記憶に残れば、何かの拍子に思い出したり、ふとガザに思いを馳せることもあるでしょう。

 

そうそう、散歩仲間のなかにはマレビトもいたのでした。

マレビトは声もなく踊りますが、その踊り自体が声を放っています。

マレビトが踊り出すと、おのずと散歩仲間のピアノ弾きがアコーディオンでロマの旋律を奏ではじめました。山伏が法螺貝を吹きはじめました。地を這う踊りは、地を這う祈りです。私たちは祈りました。公園もきっと祈ったことでしょう。

いきなり、いつもの公園とは違う風が吹いて、小さな少女がひとり、マレビトが怖いと泣きました。ごめんね、女の子ちゃん。

 

youtu.be

 

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

同じ言葉をみんなで同じリズムで叫んだりすることが苦手、

同じリズムで足並み揃えて行進したりするのが苦手、

そんなはぐれ者たちでも、もうとても耐えられない、

と、街に出て行くこともあるのです。

2024年2月18日はそんな一日でした。

 

この日、慣れないことをした私は、家に帰り着くなり、ベッドに倒れ込み、死んだように眠りました。

夢の中でも、私はぶらぶら歩いていました。

夢の中でも、そうやって祈っているようでした。

 

yuyantan-books.jimdofree.com

旗のない文学――朝鮮 / 「日本語」文学が生まれた場所 

面白いな。

金達寿ら横須賀在の朝鮮人たちは、解放後すぐに旗を作ろうとして、太極旗の四隅の「卦」がわからなくて、それを覚えている古老を探しまわったのだという。

 

植民地の民に、旗なんかなかったんだね、朝鮮人の文学も日の丸以外の旗なんか立てようがなかっただね、

 

で、「そもそも、文学とは「旗」のようなものではなかった」と黒川創は言う。

そして、「緑旗連盟」と題された、実は旗なんかどこにもない植民地の民の小説について黒川創は語りはじめる。

うまいなぁ、この展開。

 

(その一方で、国家に抗する黒い「怨」の旗を掲げた石牟礼道子を私は思い起こす。それはそれとして、)

 

旗を立てる文学を強要された時代の書き手、とりわけ植民地の書き手の、

旗を立てたふりをしつつ、実は旗を降ろした文学、という困難な試みがあるわけで……

 

それは「転向」の問題にもつながる。

 

例えば、李石薫。

黒川創いわく、

「日本支配に同調したが、彼のなかでは、絶えずもう一つの霊がささやく。李は、その小さな声に耳をふさがず、記録しようとする作家だった」

 

あからさまに旗が立つ「短歌」のようなジャンルは?

その問いの背景には、小野十三郎、そして金時鐘が徹底的に批判した短歌的抒情がある。

 

現在ではハイク(俳句)は国境を越えて、アメリカ大陸やヨーロッパのさまざまな言語や生活史をもつ人々に受けとりなおされ、抒情や詩型のありよう自体も変えてきた。同じように、短歌にも転生を遂げる道筋はないのか。(黒川創

 

大道寺将司の俳句を、ふと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サハリンの日本語文学 李恢成 /「日本語」の文学が生まれた場所

 

 

植民地支配という近代日本の負債を通して、サハリン(樺太)の日本語文学は、非日本人の作家・李恢成へと引きつがれた。

 

黒川創は書く。なるほど、確かにそうかもしれない。

 

1981年にサハリンを訪れた李恢成は、現地で会った師範大学で経済学を教える朝鮮族の教授が、東北弁をベースにした日本語を話したと書いている。

 

それを受けて、黒川創はさらにこう書く。

いまはもうない場所の言葉、いまではほかに誰も使っていない言葉を、サハリンで日本国籍からソ連籍になった朝鮮民族の一人が、使っている、李恢成の文学の日本語は、こうした言葉と歴史の堆積を、背景に持つ。

 

この逸話に、南ロシアのロストフで2004年に出会ったサハリン韓人夫婦の日本語を私は思い出した。彼らの話す日本語は、たとえて言うなら、夫は笠智衆、妻は原節子。小津映画に登場するような日本語の使い手だった。

それを聞いて、ああ、昭和の日本語……という感慨を抱いたのだった。

彼らは子どもの頃、サハリンの国民学校に通っていた少国民だった。

両親は彼らのようには日本語を話せなかったという。

この夫婦は、文部省唱歌「ふるさと」を歌い、彼らにとっての故郷サハリン、故郷日本を懐かしんだ。

 

この夫婦と出会ったことがきっかけとなって、私もサハリンを旅した。

残留韓人を訪ねた、残留日本人も訪ねた、炭鉱も訪ねた、ウィルタも訪ねた。

基本的に国民学校で日本語を学んだ世代の日本語は、南ロシアで出会った夫婦と変わらないものだった。もちろん、李恢成が出会ったような東北弁ベースの人々もいた。それはやはり東北ルーツの人々の暮らしの言葉として伝承されてきたもの。

思い返せば、サハリンの日本語世界も、極私的なものから、公的なものまで、さまざまな階層があったのだということに、気づかされる。

そして、教育によって日本語を身につけた植民地の民の日本語は、ほぼその時代の標準語なのだということ、根なしの日本語なのだということも、忘れずにおきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本語」の文学が生まれた場所 をめぐって

植民地空間に生まれた「日本語文学」は、

やがて、それが、「皇民」か否か、国家に益あるものか否かが問われ始める。

政治権力と文学の関わりのなかで、収まりどころのない宙ぶらりんの意識が、

生みだす文学がある。

 

言いかえるならば、国家と結びついた確固たるアイデンティティが求められる状況の中で、揺らぐアイデンティティによって紡ぎだされた境界上の文学があった。

 

戦時中の台湾の「皇民文学」をめぐって、黒川創はこう語る。

戦争の下でこれら(皇民文学)を書いているのは、周金波がそのとき満21歳、王昶雄が27歳と、時代に早熟を強いられた作家たちである。周金波が、自分たちの世代の文学のありようとして読んだ”皇民文学”とは、このように極端なまでに加圧された空間のなかで営まれる創作の行為全般を、その当否を問わずに指すものである。

 

文学に国境が生まれ、どの国境にも収まりがつかない文学が生まれる。

饒舌の下に沈黙を隠す二枚舌の文学が生まれる。

完全なる沈黙によって、生き方そのものを文学とする者も現れる。

 

そして、そのような揺らぐ存在や、彼らが生みだした文学は、国家の枠の中では容易に忘れられもする、ということも黒川創は語る。

日本の植民地統治下で活動していた台湾、朝鮮、満洲など、それぞれの現地人の作家らのことどもを、私たちは、ときに自発的に忘れる。そのことが、かつてそこにあった事実を私たちの目から隠してしまう。それも、また、「恥ずかしい」ことではないか。べつの見方をすれば、忘却の自発性のなかにも、政治権力の働きはあるということだろう。

 

そして、その中にあって、「忘れない」という抗い方もある。

たとえば中野重治。彼を忘れたがらない作家、と黒川創は評する。

中野は朝鮮における収奪の当事者であった父親のことを自伝的小説『梨の花』に書く。

(このことを黒川創の記述によって教えられた私は、かつてわが父の書棚にあったけれども、私が読むことのなかった『梨の花』の、あの白い花が描かれた表紙を想い起こした。朝鮮を知らぬ在日二世の父は、この本をどのような思いで読んだのか……)

 

 

自発的に忘れる世界、政治権力の圧がある世界で、特に何も気にすることなく文学に携わった日本近代の多くの文学者の中で、

漱石こそが、むろん、この世間では、狂気なのである」

黒川創

 

明治国家が下賜した文学博士号を拒否し、大逆事件後の文教政策として考えつかれた文芸委員(文芸院)という国家制度に辛辣に噛みついたという、漱石の狂気に注目。

(鴎外は国家百年の計の啓蒙の人ですからね)

 

 

ただ、いずれにせよ、文学が近代国家の枠の中で鍛え上げていった言葉は、風土とは切り離された標準語的な言葉であることは忘れずにいたい。

国家と言語が結びついていなかった世界があり、風土と結びついた声があり、言葉があり、無数の語りがあったことを忘れまい。

中央集権の圧倒的な政治権力との葛藤を抱えこんだ「文学」とは異なる、苦悩・葛藤・心情から紡ぎだされる小さな声の「語り」を想い起こしたい。

国家という枠はあまりに狭量だ。

 

 

日本語が生まれた場所、日本人が生まれた場所について、

文学が生まれた場所と合わせて、考えること。

 

 

 

小説「初陣」について  『「日本語」の文学が生まれた場所』黒川創

1935年、プロレタリア文学系の文芸誌「文学評論」に、李兆鳴という朝鮮人の日本語による「初陣」という小説が発表される。

それは、朝鮮窒素を舞台に、そこで働く朝鮮人労働者の厳しい労働の状況と弾圧とその中での連帯の光景を描いたもので、

そのもとになった朝鮮語による「窒素肥料工場」は、1932年に植民地の朝鮮日報で連載が始まったものの、検閲によって削除され、連載は途中で中止になった作品だという。

 

日本語小説「初陣」の李兆鳴は、実は、朝鮮プロレタリア芸術同盟(KAPF)所属の左翼系作家 李北鳴。

彼は実際に朝鮮窒素で働いた経験があるという。

 

そこで、黒川創の問い。

作者は、この作品を自分で日本語に訳したのだろうか?

 

そこ(朝鮮窒素の企業城下町となった興南)で営まれる日本語の大共同体は、一人の朝鮮人プロレタリア作家の言語能力まで、飛躍的に高めるに至っていたのだろうか?

 

李北鳴が、もしかしたら日本語で小説を書いた頃というのは、

漱石が書きながら自然な日常の言葉による「語り口」を作ってゆき、

漱石の影響を受けた李光洙のような朝鮮人の作家が、やはり新たにハングルによる自然な語り口を書きながら探していく、そんな試みの積み重ねを経た時期でもある。

植民宗主国の言葉である近代日本語の生成変容と共に、植民地の近代朝鮮語の生成変容もあるということ。

この生成変容により、「語りうるもの、語られうるものごとが、世界に膨らみを加えていく」と黒川創は言う。

「植民地支配下での日本語教育の推進も、こうした言語の躍動を、必ずしも阻害するものではなかった。強いられた言語でさえ、話者は、なおそれを使いこなして生きていく」と語る。

 

生き物としての言語、支配者の思惑をはみでる言語という領域にまで眼差しは伸びてゆく。

 

そこには、はみでてゆくものとしての「文学」という、文学に寄せる思いもあるのかもしれない。

 

ひきつづき、読んでいく。

 

近代文学の話法が生成されていくと同時に、おのずと消されていったであろう「語り」「声」のことが気になる。)

女の言いぶん  『「日本語」の文学が生まれた場所』黒川創

yomukakuutau.hatenadiary.com

 

2023年12月7日の記事の補足。

近代文学が獲得する「女たちの話体」という見出しのもと、序で以下のようなことを、黒川さんは語る。

 

漢字文化圏」としての極東アジアにおいて、漢文という書き言葉の教養は、女性を除外するホモソーシャルな共同性の上に成り立ってきた。反面、女たちの文化は、そこに包摂されるのを免れたことにより、定型に縛られない「口語」性を培うところがあった。漱石らの努力で、口語体による近代文学の文体がようやく整えられたことで、女たちの自由な話体もここに取り込めるようになった。加えて、女たちも、自分たちの口語体にもとづく文章を書きはじめた。

 

私は、女たちも書き始めた過程が、男たちのホモソーシャルな共同性の開かれ、であると同時に、いわば、文学の標準語化、国民化への女たちの包摂という、きわめて近代的な現象の一面も併せ持つように思う。

近代という時代そのものが、実のところ、ホモソーシャルな時代であったことを思うと、(今も、ですけどね)、もう一つの、別の形の、ホモソーシャル共同体の言語と文体の誕生があり、その恩恵という形で、女性は招き入れられた、というふうに捉え返す必要もあるかと思われた。

 

漱石草枕」(1906)の背景には、辛亥革命前夜、清朝打倒を目指して東京で中国人留学生や革命家が活動していた当時の、アジアの国際都市東京を背景に、(少なくとも漱石はそのことを念頭において)書かれたものであり、「草枕」のヒロイン那美のモデルの前田卓(まえだつな)は、当時、彼ら中国人青年が集う「民報社」で青年たちの面倒を見る「小母さん」だった。それは、前田一家と宮崎滔天とのつながりゆえのことでもある。

 

「小母さん」もまた、ホモソーシャルな近代世界に中に包摂された女の姿の一つか……。

 

前田卓が語られ、大逆事件で刑死する管野須賀子が語られ、1910年代に訪れる、「青鞜」や、「人形の家」の松井須磨子といった「新しい女」の時代の到来も、黒川創は語るが、その眼差しは実に冷静。

 

黒川創は、こう言う。 

鴎外と漱石のあいだに生きた明治の女たちで、自分の言いぶんをはっきり述べることができたのは、誰だろうか?

 前田卓は、自分自身ではあまり語らず、せっせと中国からの留学生、革命家を助けた。

 管野須賀子は、言いたいことがはっきりする前に、命を奪われてしまった感がある。(中略)

 森しげが、比較的はっきりと自分の考えを述べたのではないか。彼女の創作には、若さをとどめる女同士の雑談の先に洩れてくる、ちいさくても、きびきびとした、愛らしい感情のうごめきがこもる。だが、当時、ほとんど誰も、本気でそれに耳を傾けたりはしなかったようである。

 けれども、ものを書く上で、その葉先にとまる言葉というのは、そんなものかもしれないのだ。まだ、誰も、何がそこにあるか気づかない。その程度のものとして、かろうじて存在しているものが、この世界にはある。これまでも、これからも。だが、それには意味がある。まだ語られずにいるとしても、そこからの影響が、のちの世へと続いていく。

 

ここには、文学に携わる者、言葉に携わる者、この世界の真ん中のこと、片隅のことを問いつづける者たちが考えるべきことが、語られている。