2018-01-01から1年間の記事一覧

訳者(廣瀬浩司)あとがきに、デリダの問いを噛み砕いてもらう。

★「歓待」を考えるための現代的な前提 「歓待」とは一般的に、国家、共同体、家庭などが、その戸口に到来した他者(外国人、異邦人、よそ者、客人など)を――無条件に、あるいは条件付きで――「迎え入れる」慣習や制度のことをいう。 国境や共同体のあいだをさ…

「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。しかし、詩的なもののなかからこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。

まずニーチェの声。 「おお、人間よ、そなた、高等な人間よ、心せよ! 次の言葉はさとい耳に、そなたの耳に聞かせるためのものだ――深い真夜中は何を語るか?」 そして、ヤン・パトチカの声。 「人間は不安をかき立てるもの、和解不可能なもの、謎めいたもの…

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した ごふつくばりの力芝め だが きさまが憎めない たつた 一かたまりの 青々した草だもの両国の上で、水の色を見よう。 せめてものやすらひに―。 身にしむ水の色だ。 死骸よ。この間、浮き出さずに居れ水死の女の印象 黒くちゞかんだ藤の葉 …

国文学の発生  「てっとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。

と、『国文学の発生』(第三稿) まれびとの意義 において折口は書く。また、その「五 遠処の精霊」において、「沖縄の八重山」にその類例を見る。 「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像…

「心安らかに居られる家郷を離れて、未知の地を久しく旅する者達は、一日の終る頃や夜の時間になると、限りなく魂の不安動揺するのを感じた。それを鎮めるための効果ある方法は、旅をする一行の者が共に静かな心、静かな言葉をもって、旅中の思いや風物を歌い鎮めることであった。

これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。

石牟礼道子『苦海浄土』 第六章とんとん村 より。 足尾への眼差し。

「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…

「治水は造るものにあらず」と正造は言った。そこには渡良瀬川をはじめとする利根川水系全体を歩きたおして体得した「水と自然の思想」がある。日本の近代はこれを否定することからはじまったのだ。

正造の治水行脚。 齢70にして、1910年8月10日から1911年1月30日までに、少なくとも1800キロ以上歩いている。 それは本州縦断の距離に等しい。 これは、明治政府の治水政策の誤りを実証するための行脚だった。この情熱、執念。生きとし生ける命のための。 「…

この小説を書きながら、書き手は、「小説」なるものについて語っている。その小説観はなかなか興味深い。

P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…

足尾銅山の描写はそれなりにすごい。

おぼっちゃま君は周旋の男に連れられて、桐生あたりから歩いて歩いて山に分け入って、ついに足尾の町に入る。 「只一寸眼に附いたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。何時の間にか木が抜けて、空坊主になっ…

語り手の男はおしゃべりな男だ、自分でも扱いきれない自我の声がダダ洩れている男だ。でも、これは40歳の近代青年漱石の声なんだな。

三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になって…

田中正造  治水論/水の思想

1944年8月30日日記より。 「古えの治水は地勢による、恰も山水の画を見る如し。その山間の低地に流水あり。天然の形勢に背かず。もしこれに背く、山水として見るを得ざるなり。治水として見るを得ざるなり。然るに今の治水はこれに反し、恰も条木を以て経の…

足尾銅山略年表

1841年 11月3日 田中正造、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれる。幼名兼三郎。 1877年 古河市兵衛、足尾銅山製錬所操業。 1881年 足尾銅山、鷹の巣直利発見。84年、横間歩大直利発見。 1890年 8月 渡良瀬川大洪水、栃木・群馬両県に鉱毒被…

足尾・松木沢のはげ山と谷中の荒野はともに約3000ヘクタールという広大な面積を持つ。その二つが渡良瀬川によって結ばれている。

日本近代は、 山〜海〜天をめぐって流れて地を潤し、生きとし生けるすべての命に恵みをもたらす「水」の道を断つところからはじまった。 「水」を毒を以て濁らせことからはじまった。 「水」によって生きる命を殺すことからはじまった。日本近代の「富国強兵…

2018年8月21日 ブリティッシュコロンビア大学にて。

まずはこの絵。タイトルは「記憶の森」。by 屋敷妙子。 ギャラリーの壁面いっぱいに広がる巨大コラージュ作品だ。 現在は中国の武漢博物館に収蔵されている。 この「記憶の森」は、2011年3月11日以降の時の流れのなかで、 2014年4月〜2015年3月までの一年間…

震災から一年半後に、線量計を携えて、自転車で、奥の細道をたどった記録だ。忘却と記憶の分岐点で、金まみれ嘘まみれの忘却への標識を拒んで歩く記録だ。

たんたんと旅はつづく、たんたんと読んであとをついてゆく、 この道は忘却と記憶の分岐点ばかりで形作られている道なのだ、 人間の記憶なんてはかないもので、まだ終わっていない震災すら忘れてゆく、 分岐点にとってかえして、記憶の方へと歩き直すのは、か…

 八重洋一郎詩集 『日毒』 怒りの爆発!!

「日国 琉球侵入以来 各島々は如何になったか」 その知らせを中国の福州琉球館にもたらした八重山の役人がいる。 それをうけての中国側の記録はこう伝える、 「……光緒五年日人が琉球に侵入し国王とその世子を虜にして連れ去り国を廃して県となし……只いま島の…

舟をつくること。そこにすべての「命」の歌がある。 台湾・蘭嶼、タオ族の倫理。

★5歳の時、1962年9月の舟の完成祝いの祝賀会の情景。 父の語り聞かせてくれた物語を、50歳のシャマン・ラポガンは繰り返し夢に見る。 「山の深い谷間で干上がった川の丸石に、五人の男たちが老人を囲んで座っている。彼らはコーヒー色のからだをして、タオ語…

台湾の蘭嶼の先住民タオ族の社会では、子を持つようになると、「孫の父」「こどものお父さん」と呼ばれるようになる。作家シャマン・ラポガンは、「ラポガンの父親」なのだ。

土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。 蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代…

浪花節は、国民国家の展開と資本主義の展開がからみあっていくなかで生成し変容していった、二〇世紀における最もポピュラーな「語り物」だった。

国民国家を草の根から支えた「声」としての「浪花節」(兵藤裕己)。 「近世の封建国家の忠孝のモラル」から「近代の国民国家の一元的な忠孝のモラル」への「変換装置」となったのが、「大衆社会」に流通し浸透していく物語だったという認識。※1 桃中軒雲衛…

いきなり第7章。「歴史の限界とその向こう側の歴史」  大事なところです。 ここでは、西洋出自の<普遍的>歴史学が直面する歴史の限界と、その向こう側に広がる普遍化を否定する歴史の数々、いわば「危険な歴史」の位相が語られます。

まずは、章扉に置かれたこの言葉。噛み締めるべし。 アボリジニのあらゆる情報システムにおいて、知識とは特定の場所と人々にかかわっています。別の言い方をすれば、アボリジニの知識体系で最も重要なのは、知識を普遍化しないという点です。知識が特定化さ…

第11章  「国家に抗する社会」   未開社会は国家なき社会である。 この一文ではじまる。

これを、未開から文明へという進化論的な発想でとらえれば、西欧近代の思考の枠のなかで、西欧近代の外の世界を説明することにしかならないだろう。 国家をもつ社会が文明の到達点か? まさか。 「未だに野蛮なままにある人々をそうした場に留めているものは…

いきなり 第七章 「言葉の義務」に飛んで読んでみる。「語ることはまずなによりも、語る権力を持つことだ」。これが冒頭の一文。

「「君主であれ専制王であれ国家元首であれ、権力者は常に語る者であるばかりでなく、正統なる言葉の唯一の源泉なのだ」 「それは命令(戒律)と呼ばれ、命令を実行する者の服従以外のなにも望まない」「あらゆる権力奪取はまた言葉の獲得でもある」 「国家…

第二章  いったん頭から西欧的な権力の思考を外したところから問いを立てる

「権力行使の手段をもたぬ権力とは一体何なのか?」 「首長に権威がないのなら、首長は何によって定義されるのか?」 1.首長は「平和をもたらす者」である。 (戦時にのみ強制力をもつ権力が出現する。戦時首長)2.首長は自分の財物において物惜しみをし…

権力について、真剣に問うことなどできるのだろうか。 という問いから第一章「コペルニクスと野蛮人」ははじまる。

この章にかかれていることは、冒頭に置かれたエピグラムの言葉に尽きるのだな。「旅に出て、少しも心を改めることのない人があった」という話にソクラテスはこう答えた。「ありそうなことだ。その人は、自分を携えたまま旅をしたのだ」(モンテーニュ) 権力…

きのう、津軽イタコの「お岩木さま一代記」を聴いた。

いや、イタコが語るのを聞いたわけではないんです。 1931年に採録されたテクストをもとに、「声」の表現者である井上秀美さんに、「お岩木様一代記」を演じてもらった。 これが実に面白かった。 今回「お岩木様一代記」を口演した井上秀美こと井上イダコ…

 百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない、とアイヒマンは言った。

金石範は、短編小説の中でこう書く。「『……狭い島の中で三人に一人が、それも八万人も死んだでしょう。(中略)いまでこそ八万だとか数字の上でのことでいうけれど、あたしには限りない一人一人としてそれがはっきり見えてくるのよ』」 (「夜」より。 済州4…

近代という仕組みは、きわめて高機能の忘却装置なのだということ。

人間が日常の中で具体的に体験して、物事を考え、記憶にとどめ、記憶を伝え、個々の生が断片化せずに生きていくことのできる範囲というのは、たとえば、昔、風土の神、土地の神、田の神、山の神、水の神等々、小さき神々を祀り、その神々の神威が及ぶ範囲の…

あんじゅが姫は父を訪ねて旅に出る。

あんじゅが姫は父を探す旅に出る。

あんじゅが姫が父を探しにゆくと言うと、母は反対する。 寂しがる、悲しむ。「小枝が裂けるつぁ この事か/血の涙ぢぁ この事か」 「そごでもないよ母上様/私は右の小指一本/切って置いて行くから/われぁ来るまで何年でも/これを舐めれば/腹もしきれな…

あんじゅが姫は母を訪ねて旅に出る。

「こんなに困難盡し終へでも/母ど致するものもなし/年は7つの年に/頃は四月の春の頃」(3つの年から、7つまで、「津軽三十三観音、六十余州/日本全国、西国三十三観音みなかげで」旅したわけです。この放浪は、まるでスサノオの放浪のようでもあります。…