文学

3日目の午前、団体からひとり抜け出し、「堂」を訪ね歩く。臥屹里本郷堂から、堂めぐりをスタート。

臥屹里→松堂里→金寧里→北村里→新興里→善屹里とまわっていく。 「松堂」 ここは済州島の「堂」の神々の親とされる。 「北村里の海辺の堂」 有名な臥屹里と松堂里のほかは、堂の場所がよくわからない。 タクシーの運転手さんが地元の老人たちに聞いては探す。 …

済州大学の建築学の先生や、詩人の家の主宰の方の話を聞く。(一日目)、43平和記念公園、43の虐殺の村・北村里訪問(2日目)には参加せず、2日目午後の石文化公園からの合流です。

石文化公園に来たのは、四回目だと思う。 それは、この公園を創り出したひとりの男の狂気に引き寄せられてのこと。 男は、島の創世神ソルムンデハルマンと、その五百人の息子である五百将軍の神話を、自分自身の生の神話として、生きている。 男自身の母が「…

2018年10月13日<アナキスト宣言 in 京都>                                       思い起こせば、ここから「死者の声」とあらためてむかってゆく今回の旅ははじまったのだった。最初にこんな宣言をしてしまっているのだから、仕方ない。

『現代説経集』(姜信子 ぷねうま舎)より。 ただし、京都では、京都の声で、本文どおりには語っておりませぬ。 - 実を言えば、わたくし、ここのところ、恥ずかしながら「水のアナーキスト」を名乗っております。どうか陳腐な名乗りだと笑わないでください、…

近代社会において暴力の予感にさらされつづける者としての「異人」に出会うとき、そこに見いだすのは、「死体化」の時間を生きる説経の主人公たちの姿であったりもする。

●ある沖縄人の声「戦場化を押しつけた者がいなければ、わたしは沖縄戦にこだわらなかったはずだ。しかし、沖縄人を殺した日本人がいた。沖縄人を殺した沖縄人がいた。朝鮮人を殺した沖縄人がいた。そして、沖縄人はわたしだ。わたしが日本人に殺され、沖縄人…

訳者(廣瀬浩司)あとがきに、デリダの問いを噛み砕いてもらう。

★「歓待」を考えるための現代的な前提 「歓待」とは一般的に、国家、共同体、家庭などが、その戸口に到来した他者(外国人、異邦人、よそ者、客人など)を――無条件に、あるいは条件付きで――「迎え入れる」慣習や制度のことをいう。 国境や共同体のあいだをさ…

「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。しかし、詩的なもののなかからこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。

まずニーチェの声。 「おお、人間よ、そなた、高等な人間よ、心せよ! 次の言葉はさとい耳に、そなたの耳に聞かせるためのものだ――深い真夜中は何を語るか?」 そして、ヤン・パトチカの声。 「人間は不安をかき立てるもの、和解不可能なもの、謎めいたもの…

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した ごふつくばりの力芝め だが きさまが憎めない たつた 一かたまりの 青々した草だもの両国の上で、水の色を見よう。 せめてものやすらひに―。 身にしむ水の色だ。 死骸よ。この間、浮き出さずに居れ水死の女の印象 黒くちゞかんだ藤の葉 …

国文学の発生  「てっとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。

と、『国文学の発生』(第三稿) まれびとの意義 において折口は書く。また、その「五 遠処の精霊」において、「沖縄の八重山」にその類例を見る。 「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像…

「心安らかに居られる家郷を離れて、未知の地を久しく旅する者達は、一日の終る頃や夜の時間になると、限りなく魂の不安動揺するのを感じた。それを鎮めるための効果ある方法は、旅をする一行の者が共に静かな心、静かな言葉をもって、旅中の思いや風物を歌い鎮めることであった。

これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。

石牟礼道子『苦海浄土』 第六章とんとん村 より。 足尾への眼差し。

「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…

この小説を書きながら、書き手は、「小説」なるものについて語っている。その小説観はなかなか興味深い。

P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…

足尾銅山の描写はそれなりにすごい。

おぼっちゃま君は周旋の男に連れられて、桐生あたりから歩いて歩いて山に分け入って、ついに足尾の町に入る。 「只一寸眼に附いたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。何時の間にか木が抜けて、空坊主になっ…

語り手の男はおしゃべりな男だ、自分でも扱いきれない自我の声がダダ洩れている男だ。でも、これは40歳の近代青年漱石の声なんだな。

三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になって…

台湾の蘭嶼の先住民タオ族の社会では、子を持つようになると、「孫の父」「こどものお父さん」と呼ばれるようになる。作家シャマン・ラポガンは、「ラポガンの父親」なのだ。

土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。 蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代…

 百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない、とアイヒマンは言った。

金石範は、短編小説の中でこう書く。「『……狭い島の中で三人に一人が、それも八万人も死んだでしょう。(中略)いまでこそ八万だとか数字の上でのことでいうけれど、あたしには限りない一人一人としてそれがはっきり見えてくるのよ』」 (「夜」より。 済州4…

「子午線」(1961年)より

もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みら…

「詩は……」より(1970年)

詩はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずから曝そうとするものである。

「ハンス・ベンダーへの手紙」(1961年)より

わたしたちは暗い空のもとに生きています。そして――人間と呼べる人間は僅かしかいません。おそらくそのために詩もこんなに僅かなのでしょう。

「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(1958年)から

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。 (中略) しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりま…

これはもう40年ほども前の文章なのだ。しかし、在日する者たちを取り巻く日本の状況は何ら変わってないように見える。いっそう苦しいとも言える。そこにあるのは、「極めて政治的な、非政治の思想」という壁。

<以下、「政治と文学」からの抜き書き> 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とと…

石牟礼道子/金時鐘/小野十三郎

石牟礼道子 「短歌と私」より 1965年頃 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云い…

 詩人金時鐘を語るならば、詩人小野十三郎「詩論」を読まずには済まされぬ。 

詩論39 新しい郷土観が創られるためには、人間一人一人がその精神に、ダムの湖底に沈み去った故郷を持つ必要がある。これは強烈な言葉。 詩論37 田舎はいいなどと云っている奴があれば、その田舎に愛想をつかさせることも必要である。それによって人間の…

金石範「在日朝鮮人文学」より

ことばが開かれたそのときはすでに想像力の作業によって虚構の世界が打ち上げられたときであり、虚構はことばに拠りながら同時にことばを越えたものとしてある。 それはまたイメージ自身がことばに拠り、それに拘束されながら同時にそのことばを蹴って飛び立…

1971年『文学界』に発表された「夜」は1960年大阪が舞台だ。

火葬場のある町、母の死、そして北朝鮮への帰国運動……。 隠坊、癩者、朝鮮人、川向うの人々。 火葬場にて。 「すすけて真っ黒になった凹凸のはげしい高い壁が天井に接して目に入ってきた。そこには無数の嬰児の大きさをもったざらざらで粗雑な仏像ようのもの…

金石範作品集?より「糞と自由と」。そのなかに流れる朝鮮民謡「トラジ」

戦争末期、徴用されてきた北海道のクローム鉱山から逃亡を企てた李命植は、山すその茂みに身を潜ませていたそのとき、声を聴く。 そのとき、なにか人の声がしたと思った。それは彼にどきんとさせなかったほど、ふしぎな声だった。風にのってそれは歌のように…

リービ英雄が語る、古井由吉との「書くということ」をめぐる対話。

「書くということは本質的に、どこか母語の外に出て、戻ってくるということ。ぼくがはじめてこういう話をしたのは、作家デビューをする前、古井由吉という、誰よりも日本語を、まさに母語として極めた作家と話したとき。そのときに、書くということが、日本…

水。なのだな。

流れる水。 新しい世界への水路。ル・クレジオ『ラガ』。訳者の管啓次郎さんが、こんなことを書いている。「文学の大きな役割が、世界を重層的に想像することの手助けだとしたら、そして追いつめられ窒息しそうな人々の別の生き方、別の世界のあり方をしめす…

昨夜は両国のシアターXにて、朗読劇「ディブック」を観た。

ユダヤの民間伝承に伝わる悪霊ディブックの伝説を下敷きに、「前世の契りによって結ばれた若い男女が辿る悲劇を描いたユダヤ演劇史上もっとも有名な戯曲」とパンフレットにある。2時間弱の長丁場。 生者も死者も同等に扱われるユダヤの律法による裁きの場。 …

 新しい本が出ます!

四六判上製 80頁 オールカラー 本体価格2400円 羽鳥書店 2015年9月中旬刊行 挿画:山福朱実、屋敷妙子、早川純子、塩川いづみ〈はじまり〉を生きる者たちの歌。済州島から、サハリン、台湾、八重山へ―― 路傍の声に耳傾け、旅人がめぐる3つの〈はじまり〉「あ…

千とは、つまり「無数」なのだ

と、ボルヘスは言う。(『七つの夜』の中で)。 無数の夜、数多の夜、数え切れない夜、それにさらにもう一夜を加えて、千一夜。無数、無限のダメ押し。 物語は永遠に語られ続けるのである。 誰に? コンファブラトーレス・ノクトゥルニ cofabulatores noctur…