文学
臥屹里→松堂里→金寧里→北村里→新興里→善屹里とまわっていく。 「松堂」 ここは済州島の「堂」の神々の親とされる。 「北村里の海辺の堂」 有名な臥屹里と松堂里のほかは、堂の場所がよくわからない。 タクシーの運転手さんが地元の老人たちに聞いては探す。 …
石文化公園に来たのは、四回目だと思う。 それは、この公園を創り出したひとりの男の狂気に引き寄せられてのこと。 男は、島の創世神ソルムンデハルマンと、その五百人の息子である五百将軍の神話を、自分自身の生の神話として、生きている。 男自身の母が「…
『現代説経集』(姜信子 ぷねうま舎)より。 ただし、京都では、京都の声で、本文どおりには語っておりませぬ。 - 実を言えば、わたくし、ここのところ、恥ずかしながら「水のアナーキスト」を名乗っております。どうか陳腐な名乗りだと笑わないでください、…
●ある沖縄人の声「戦場化を押しつけた者がいなければ、わたしは沖縄戦にこだわらなかったはずだ。しかし、沖縄人を殺した日本人がいた。沖縄人を殺した沖縄人がいた。朝鮮人を殺した沖縄人がいた。そして、沖縄人はわたしだ。わたしが日本人に殺され、沖縄人…
★「歓待」を考えるための現代的な前提 「歓待」とは一般的に、国家、共同体、家庭などが、その戸口に到来した他者(外国人、異邦人、よそ者、客人など)を――無条件に、あるいは条件付きで――「迎え入れる」慣習や制度のことをいう。 国境や共同体のあいだをさ…
まずニーチェの声。 「おお、人間よ、そなた、高等な人間よ、心せよ! 次の言葉はさとい耳に、そなたの耳に聞かせるためのものだ――深い真夜中は何を語るか?」 そして、ヤン・パトチカの声。 「人間は不安をかき立てるもの、和解不可能なもの、謎めいたもの…
焼け原に 芽を出した ごふつくばりの力芝め だが きさまが憎めない たつた 一かたまりの 青々した草だもの両国の上で、水の色を見よう。 せめてものやすらひに―。 身にしむ水の色だ。 死骸よ。この間、浮き出さずに居れ水死の女の印象 黒くちゞかんだ藤の葉 …
と、『国文学の発生』(第三稿) まれびとの意義 において折口は書く。また、その「五 遠処の精霊」において、「沖縄の八重山」にその類例を見る。 「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像…
これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。
「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…
P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…
おぼっちゃま君は周旋の男に連れられて、桐生あたりから歩いて歩いて山に分け入って、ついに足尾の町に入る。 「只一寸眼に附いたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。何時の間にか木が抜けて、空坊主になっ…
三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になって…
土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。 蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代…
金石範は、短編小説の中でこう書く。「『……狭い島の中で三人に一人が、それも八万人も死んだでしょう。(中略)いまでこそ八万だとか数字の上でのことでいうけれど、あたしには限りない一人一人としてそれがはっきり見えてくるのよ』」 (「夜」より。 済州4…
もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みら…
詩はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずから曝そうとするものである。
わたしたちは暗い空のもとに生きています。そして――人間と呼べる人間は僅かしかいません。おそらくそのために詩もこんなに僅かなのでしょう。
もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。 (中略) しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりま…
<以下、「政治と文学」からの抜き書き> 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とと…
石牟礼道子 「短歌と私」より 1965年頃 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云い…
詩論39 新しい郷土観が創られるためには、人間一人一人がその精神に、ダムの湖底に沈み去った故郷を持つ必要がある。これは強烈な言葉。 詩論37 田舎はいいなどと云っている奴があれば、その田舎に愛想をつかさせることも必要である。それによって人間の…
ことばが開かれたそのときはすでに想像力の作業によって虚構の世界が打ち上げられたときであり、虚構はことばに拠りながら同時にことばを越えたものとしてある。 それはまたイメージ自身がことばに拠り、それに拘束されながら同時にそのことばを蹴って飛び立…
火葬場のある町、母の死、そして北朝鮮への帰国運動……。 隠坊、癩者、朝鮮人、川向うの人々。 火葬場にて。 「すすけて真っ黒になった凹凸のはげしい高い壁が天井に接して目に入ってきた。そこには無数の嬰児の大きさをもったざらざらで粗雑な仏像ようのもの…
戦争末期、徴用されてきた北海道のクローム鉱山から逃亡を企てた李命植は、山すその茂みに身を潜ませていたそのとき、声を聴く。 そのとき、なにか人の声がしたと思った。それは彼にどきんとさせなかったほど、ふしぎな声だった。風にのってそれは歌のように…
「書くということは本質的に、どこか母語の外に出て、戻ってくるということ。ぼくがはじめてこういう話をしたのは、作家デビューをする前、古井由吉という、誰よりも日本語を、まさに母語として極めた作家と話したとき。そのときに、書くということが、日本…
流れる水。 新しい世界への水路。ル・クレジオ『ラガ』。訳者の管啓次郎さんが、こんなことを書いている。「文学の大きな役割が、世界を重層的に想像することの手助けだとしたら、そして追いつめられ窒息しそうな人々の別の生き方、別の世界のあり方をしめす…
ユダヤの民間伝承に伝わる悪霊ディブックの伝説を下敷きに、「前世の契りによって結ばれた若い男女が辿る悲劇を描いたユダヤ演劇史上もっとも有名な戯曲」とパンフレットにある。2時間弱の長丁場。 生者も死者も同等に扱われるユダヤの律法による裁きの場。 …
四六判上製 80頁 オールカラー 本体価格2400円 羽鳥書店 2015年9月中旬刊行 挿画:山福朱実、屋敷妙子、早川純子、塩川いづみ〈はじまり〉を生きる者たちの歌。済州島から、サハリン、台湾、八重山へ―― 路傍の声に耳傾け、旅人がめぐる3つの〈はじまり〉「あ…
と、ボルヘスは言う。(『七つの夜』の中で)。 無数の夜、数多の夜、数え切れない夜、それにさらにもう一夜を加えて、千一夜。無数、無限のダメ押し。 物語は永遠に語られ続けるのである。 誰に? コンファブラトーレス・ノクトゥルニ cofabulatores noctur…