文学

「心安らかに居られる家郷を離れて、未知の地を久しく旅する者達は、一日の終る頃や夜の時間になると、限りなく魂の不安動揺するのを感じた。それを鎮めるための効果ある方法は、旅をする一行の者が共に静かな心、静かな言葉をもって、旅中の思いや風物を歌い鎮めることであった。

これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。

石牟礼道子『苦海浄土』 第六章とんとん村 より。 足尾への眼差し。

「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…

この小説を書きながら、書き手は、「小説」なるものについて語っている。その小説観はなかなか興味深い。

P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…

足尾銅山の描写はそれなりにすごい。

おぼっちゃま君は周旋の男に連れられて、桐生あたりから歩いて歩いて山に分け入って、ついに足尾の町に入る。 「只一寸眼に附いたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。何時の間にか木が抜けて、空坊主になっ…

語り手の男はおしゃべりな男だ、自分でも扱いきれない自我の声がダダ洩れている男だ。でも、これは40歳の近代青年漱石の声なんだな。

三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になって…

台湾の蘭嶼の先住民タオ族の社会では、子を持つようになると、「孫の父」「こどものお父さん」と呼ばれるようになる。作家シャマン・ラポガンは、「ラポガンの父親」なのだ。

土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。 蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代…

 百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない、とアイヒマンは言った。

金石範は、短編小説の中でこう書く。「『……狭い島の中で三人に一人が、それも八万人も死んだでしょう。(中略)いまでこそ八万だとか数字の上でのことでいうけれど、あたしには限りない一人一人としてそれがはっきり見えてくるのよ』」 (「夜」より。 済州4…

「子午線」(1961年)より

もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みら…

「詩は……」より(1970年)

詩はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずから曝そうとするものである。

「ハンス・ベンダーへの手紙」(1961年)より

わたしたちは暗い空のもとに生きています。そして――人間と呼べる人間は僅かしかいません。おそらくそのために詩もこんなに僅かなのでしょう。

「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(1958年)から

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。 (中略) しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりま…

これはもう40年ほども前の文章なのだ。しかし、在日する者たちを取り巻く日本の状況は何ら変わってないように見える。いっそう苦しいとも言える。そこにあるのは、「極めて政治的な、非政治の思想」という壁。

<以下、「政治と文学」からの抜き書き> 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とと…

石牟礼道子/金時鐘/小野十三郎

石牟礼道子 「短歌と私」より 1965年頃 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云い…

 詩人金時鐘を語るならば、詩人小野十三郎「詩論」を読まずには済まされぬ。 

詩論39 新しい郷土観が創られるためには、人間一人一人がその精神に、ダムの湖底に沈み去った故郷を持つ必要がある。これは強烈な言葉。 詩論37 田舎はいいなどと云っている奴があれば、その田舎に愛想をつかさせることも必要である。それによって人間の…

金石範「在日朝鮮人文学」より

ことばが開かれたそのときはすでに想像力の作業によって虚構の世界が打ち上げられたときであり、虚構はことばに拠りながら同時にことばを越えたものとしてある。 それはまたイメージ自身がことばに拠り、それに拘束されながら同時にそのことばを蹴って飛び立…

1971年『文学界』に発表された「夜」は1960年大阪が舞台だ。

火葬場のある町、母の死、そして北朝鮮への帰国運動……。 隠坊、癩者、朝鮮人、川向うの人々。 火葬場にて。 「すすけて真っ黒になった凹凸のはげしい高い壁が天井に接して目に入ってきた。そこには無数の嬰児の大きさをもったざらざらで粗雑な仏像ようのもの…

金石範作品集?より「糞と自由と」。そのなかに流れる朝鮮民謡「トラジ」

戦争末期、徴用されてきた北海道のクローム鉱山から逃亡を企てた李命植は、山すその茂みに身を潜ませていたそのとき、声を聴く。 そのとき、なにか人の声がしたと思った。それは彼にどきんとさせなかったほど、ふしぎな声だった。風にのってそれは歌のように…

リービ英雄が語る、古井由吉との「書くということ」をめぐる対話。

「書くということは本質的に、どこか母語の外に出て、戻ってくるということ。ぼくがはじめてこういう話をしたのは、作家デビューをする前、古井由吉という、誰よりも日本語を、まさに母語として極めた作家と話したとき。そのときに、書くということが、日本…

水。なのだな。

流れる水。 新しい世界への水路。ル・クレジオ『ラガ』。訳者の管啓次郎さんが、こんなことを書いている。「文学の大きな役割が、世界を重層的に想像することの手助けだとしたら、そして追いつめられ窒息しそうな人々の別の生き方、別の世界のあり方をしめす…

昨夜は両国のシアターXにて、朗読劇「ディブック」を観た。

ユダヤの民間伝承に伝わる悪霊ディブックの伝説を下敷きに、「前世の契りによって結ばれた若い男女が辿る悲劇を描いたユダヤ演劇史上もっとも有名な戯曲」とパンフレットにある。2時間弱の長丁場。 生者も死者も同等に扱われるユダヤの律法による裁きの場。 …

 新しい本が出ます!

四六判上製 80頁 オールカラー 本体価格2400円 羽鳥書店 2015年9月中旬刊行 挿画:山福朱実、屋敷妙子、早川純子、塩川いづみ〈はじまり〉を生きる者たちの歌。済州島から、サハリン、台湾、八重山へ―― 路傍の声に耳傾け、旅人がめぐる3つの〈はじまり〉「あ…

千とは、つまり「無数」なのだ

と、ボルヘスは言う。(『七つの夜』の中で)。 無数の夜、数多の夜、数え切れない夜、それにさらにもう一夜を加えて、千一夜。無数、無限のダメ押し。 物語は永遠に語られ続けるのである。 誰に? コンファブラトーレス・ノクトゥルニ cofabulatores noctur…

誰でもそれぞれの死後を生きている。

古井由吉『野川』。受け取りそこねた沈黙がある。その沈黙に耳を澄ます。そこに聞き取る何かは、この世のものではない何かのようである。それを聴く自分自身もこの世のものではないようである。「わたしは一滴の水となった。滴となり大海に失われた。わたし…

妄想する耳

古井由吉の作品集『聖耳』を読んでいる。延喜帝が深夜、京の端で泣く女の声を聴き取り、今すぐその声の主を尋ねよと蔵人に厳命して、探し出させた逸話を表題作「聖耳」の中に古井由吉は書き込んでいる。。 それは声にまつわる空恐ろしい語り。「一里の道を渡…

今年もよく旅をした。

年の初めから、詩人谺雄二の声を千年先まで飛ばそうと、谺さんに会いに、本を作りに草津の栗生楽泉園に通った。5月11日に谺さんが逝ってしまう前に、本は滑り込みで間に合った。谺さんの「いのちの証」。『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず…

「わたしは居心地がよいと思う場所には決していたことがなかった。(・・・・・・)さまざまな理由で、恥辱がわたしの全人生を覆い尽くしている」 (デュラス『愛と死、そして生活』)

「殺したい、という欲望を、わたしは一生もち続けている。はっきり言う。わたしがもち続けているもののなかでも、最ももち続けているのはそれだ」(『アルテルナティヴ・テアトラル』誌より)「物事を学んだとたんに、あるいはそれらを見たとたんに、早くも…