2018-01-01から1年間の記事一覧

あんじゅがひめを救うモノたち

1.三途の川の橋のところで南無大姉様(神)に歌掛け(「あぶらおんけと三遍もうだをかげたるなれば」)、油売りがやってくる!「この油紙を張って水を汲め」あぶらおんけのおまじまいが、あぶらうりを呼び出す、という声の力! 2.「咽せ咽せ行て見れば」…

さんそう太夫登場 ~ あんじゅが姫の試練〜

「太鼓三味線の音がする/あれの音ではないかと/急いで行て見れば/丹後の国の奥の山で/さんそう太夫が先ぎだちして/天の明神様弟のふりやいが悪い為に/石のから戸に身体をおかくれ致した時分に/さんそう太夫が太鼓三味線で/つゆのお神楽あげでら音で…

姫復活と丹後流し

「死んだものだべが/生きだものだべか/掘りあげで見れば/私の身の上は/死んだわけでもなし/成長(おが)つて笑ってる身体である」 なによりすさまじいのは、ここの部分。 土の中で育って、笑っている体。 この体が、たった三歳の体が、おそれおののいた…

母おさだの放浪

●おさだを憐れんだ村の長者が、からの国の加藤左衛門を紹介してくれる。 (からとは唐なのか? 加賀なのか?) (加藤左衛門とは、五大説経の一つ「刈萱」の主人公の父の名前ではないか。近代以前、誰もが知っていた説経系の物語は、相互に溶け合っているよ…

生埋めにされたあんじゅが姫

●母はおさだ、加賀の生まれ。 (加賀からの移民という、当時の人の流れを想起させる) ●兄はつそう丸 …(説経「山椒太夫」から来た名前だろう。在地の神が物語を乗っ取る) ●姉はおふじ、 ●最後があんじゅが姫。 (安寿姫でもあり、庵主が姫でもある。母さだ…

坂口昌明は、「翻弄され、たえず涙にくれる、登場人物の力のなさ、これが急所です」と『お岩木様一代記』の背景をなす『神道集』について語る。

『お岩木様一代記』(坂口昌明編 津軽書房)より 地域の鎮守神の崇高さを称える『神道集』の感覚は、現代の私たちが『お岩木様一代記』を理解するのに大切な、鍵のひとつと思われます。 (『神道集』は)はじめその考え方が比叡山系の寺院周辺から流れ出した…

昭和6年(1931) 国学院大学高等師範部三年の竹内長雄は、青森県南津軽郡女鹿沢村下十川字川倉コに住むイダコ桜庭スエを訪ね、『お岩木様一代記』『十六ぜん様』『猿賀の一代記』を採録した。

<『お岩木様一代記』についての柳田國男の感想> ・語り手の文作の多いこと ・是非とも守るべき伝承の少なかったこと ・之に加ふるに忘却と誤解あり ・聴手の曲従もしくは容認 ・新しい文化の意識せざる影響 ・ハンカチとカバンは殊に驚く ・現代文学の印象…

「子午線」(1961年)より

もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みら…

「詩は……」より(1970年)

詩はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずから曝そうとするものである。

「ハンス・ベンダーへの手紙」(1961年)より

わたしたちは暗い空のもとに生きています。そして――人間と呼べる人間は僅かしかいません。おそらくそのために詩もこんなに僅かなのでしょう。

「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(1958年)から

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。 (中略) しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりま…

基調講演  私の「切れてつながる」

●「君は「空っぽ」だな。」2010年.大阪・すかんぽにて。 東京で初めてお目にかかって、それからまたすぐに大阪で2回目の出会いのときのことでした。これは大変ショックな言葉だったのですが、なるほど、確かにそうだ、私は空っぽである、とそのとき私は珍し…

これはもう40年ほども前の文章なのだ。しかし、在日する者たちを取り巻く日本の状況は何ら変わってないように見える。いっそう苦しいとも言える。そこにあるのは、「極めて政治的な、非政治の思想」という壁。

<以下、「政治と文学」からの抜き書き> 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とと…

祭文の風景 記憶を語る声から。 

山形の祭文語りにまつわる記憶。 明治末年 越後頚城郡春日野村正善寺 北条時宗氏による。 「私は幼い頃、丈余の雪に閉ざされた旧正月に度々この村の長格の家に連れられて二、三日を過ごした。その村で雪の正月を楽しむ祭文語りを聞いた。大きな家で十畳二間…

貝祭文(デロレン祭文)は、平安時代に起こった山伏祭文の血脈を引くという。

近世寛永頃に上方において山伏祭文から派生した「歌祭文」、 江戸の山伏祭文とかかわりの深い「説経祭文」、 その成立を貝祭文から推測するというアプローチ。 <古代の祭文から貝祭文への流れ>1・そもそも祭文のはじまりは古代、「仏教・神道・陰陽道・儒…

陰陽師と言えば、説経では安倍晴明、蘆屋道満をはじめとして、いろんな話に「易学博士」として登場しますね。

幕末に薩摩若太夫系統の説経祭文が多摩や埼玉に広がるにあたって、神楽師(=陰陽師)ネットワークが大きな役割を果した。それはまずは、 1.薩摩若太夫門下になるということ ・5代目若太夫(板橋・諏訪仙之助)、6代目若太夫(多摩郡二宮・古谷平五郎)…

歌祭文・歌説経

三田村鳶魚曰く、歌念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。 語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。 「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文…

ふたたび説経祭文は舞台から離れてゆく。多摩の農村へ。車人形へ。

<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫>「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」浜太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。 ★三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。 「説経が忘れられたようで絶えないのは、…

寛政(1789〜1801)年間 山伏祭文を本所四つ目の米屋の亭主 米千が三味線と合わせて語りだして評判になる。

初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。◆堺町 薩摩座で操興行へ。◆嵯峨御所(大覚…

説経は大道を本拠地に、説経芝居になっては廃れ、廃れては説経祭文となり、また舞台へ、そして……。

そもそも、説経のはじまりは、 「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。 「元…

 説経の大きな流れ

説経:仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比喩や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。 江戸以前:漂泊の芸能。寺社の境内や門前で語られるものだった…

 川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)より

P238黒人アフリカ社会では一般に、人間は決して集合的に認知されてはいない。人間を、課税の対象、投票の員数、労働力、軍事力として、脱個性的に、互換性をもった等質の単位によって数量化し、集合的に扱うのは、むしろ近代西洋に発達した思考だ。アフリカ…

石牟礼道子/金時鐘/小野十三郎

石牟礼道子 「短歌と私」より 1965年頃 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云い…

 詩人金時鐘を語るならば、詩人小野十三郎「詩論」を読まずには済まされぬ。 

詩論39 新しい郷土観が創られるためには、人間一人一人がその精神に、ダムの湖底に沈み去った故郷を持つ必要がある。これは強烈な言葉。 詩論37 田舎はいいなどと云っている奴があれば、その田舎に愛想をつかさせることも必要である。それによって人間の…

リルケがアポロの石像から受け取ったメッセージ

「君は人生を変えなければならない」人それぞれの「アポロの石像」があるはずなのだ。

 瞽女唄は、我々に「はたしてそれでいいのか」という大きな問いを投げかけている。

P225より我々が今検討すべきは、瞽女唄に残された面白さと楽しみをどのように「搾り取るか」でも、それをどのように今の社会状況の中で「生かし、利用すべきか」でもない。そうではなく、我々は逆に、瞽女唄が我々に何を求め、我々にどのように挑戦してい…

 天草四郎と切支丹の若き武士蜷川右近の会話

四郎「この世は今もって、大いなる混沌でござります」右近「さっき虚空と言われたが」四郎「はい。底なしの空ろというべきか」右近「して、そこから世界は生まれ直すと思わるるや」四郎「万物を生み、滅ぼす仕かけが、そこにあるやもしれませぬ」右近「なら…

第3章「植民地の民衆」より。 朝鮮人部落のこと

●興南は、朝鮮でも特殊な環境でした。日本人は全部、社宅に入ってしまうか商店街に住み、周囲の朝鮮人部落とは隔絶していた。 ●ヨボ部落の汚いことは、見なければ話にならんです。たいがいの家が豚と犬とを飼っとるですよ。豚と犬がそこら辺に大便する、小便…

第3章「植民地の民衆」より。 日本人社宅の奥さんと朝鮮のオモニの朝鮮語レッスン

「オクサン、オデミ」 「オデミ、オッチェ(オデミてなあに)」 「オクサン、ドコスンデル」 「五区ヨ、タンシン、オリマッソ(あんたはどこ)?」 「タンシン、チョッコン、チョッコン(すぐそこ)」 「チョコマン サラメ オルマ(子どもは居るの)?」 「…

第3章「植民地の民衆」のうち 「カフェと遊郭」。そして植民地をめぐる想像力のこと。

「朝鮮じゃみんな飲みよった。飲まん人間は居なかった。行くのはほとんどカフェだった。九竜里に行けば、ドラゴン、春雨、楽園会館。天機里に行けば、赤玉、オリオン、金春、武蔵食堂……」 「興南は遊郭が賑わったもん。松ヶ野町というて、柳亭里社宅の手前が…